文革期文学研究

毛沢東「延安の文芸座談会における講話」


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4-1.   文艺界的主要的斗争方法之一,是文艺批评。文艺批评应该发展,过去在这方面工作做得很不够,同志们指出这一点是对的。文艺批评是一个复杂的问题,需要许多 专门的研究。我这里只着重谈一个基本的批评标准问题。此外,对于有些同志所提出的一些个别的问题和一些不正确的观点,也来略为说一说我的意见。
4-1.  文芸界の主要な闘争 方法の一つは文芸批評である。文芸批評は発展させるべきであるが、これまでこの方面の活動は大変不十分であり、同士諸君がこの点を指摘したのは正し い。文芸批評は複雑な問題で、たくさんの専門的な研究を必要とする。ここでは、批評基準という基本的な問題についてだけ重点を置いて話す。このほか、一部 の同志が提起したいくつかの個別の問題といくつかの正しくない観点についても、私の考えを簡単に話してみよう。
4-2.   文艺批评有两个标准,一个是政治标准,一个是艺术标准。
4-3.    按照政治标准来说,一切利于抗日和团结的,鼓励群众同心同德的,反对倒退、促成进步的东西, 便都是 好的;而一切不利于抗日和团结的,鼓动群众离 心离德的,反对进步、拉着人们倒退的东西,便都是坏的。
4-4.    这里所说的好坏,究竟是看动机(主观愿望),还是看效 果(社会实践)呢?唯心论者是强调动机否认效果的,机械唯物论者是强调效果否认动机的,我们和这两者相反,我们是辩证唯物主义的动机和效果的统一论者。为 大众的动机和被大众欢迎的效果,是分不开的,必须使二者统一起来。为个人的和狭隘集团的动机 是不好的,有为大众的动机但无被大众欢迎、对大众有益的效果, 也是不好的。检验一个作家的主观愿望即其动机是否正确,是否善良,不是看他的宣言,而是看他的行为(主要是作品)在社会大众中产生的效果。社会实践及其效 果是检验主观愿望或动机的标准。
4-5.    我们的文艺批评是不要宗派主义的,在团结抗日的大原则下,我们应该容许包含各种各色政治态度的文艺作品的存在。但是我们的 批评又是坚持原则立场的,对于一切包含反民族、反科学、反大众和反共的观点的文艺作品必须给以严格的批判和驳斥;因为这些所谓文艺,其动机,其效果,都是 破坏团结抗日的。
4-6.     按着艺术标准来说,一切艺术性较高的,是好的,或较好的;艺术性较低的,则是坏的,或较坏的。这种分别,当然也要看社会效果。文艺家几乎 没有不以为自己的作品是美的,我们的批评,也应该容许各种各色艺术品的自由竞争;但是按照艺术科学的标准给以正确的批判,使较低级的艺术逐渐提高成为较高 级的艺术,使不适合广大群众斗争要求的艺术改变到适合广大群众斗争要求的艺术,也是完全必要的。 
4-2.    文芸批評には二つの基準がある。一つは政治的基準であり、もう一つは芸術的基準である。
4-3.    政治的基準から言えば、抗日と団結に有利なもの、大衆が一心同体となるよう鼓舞するもの、後退に 反対し進歩を促すもの、これらはすべて良いものである。その反対に、抗日と団結に不利なもの、大衆の不和反 目扇動するもの、進歩に反対し人々を後退させるもの、これらはすべて悪いも のであ る。
4-4.    ここで言う、よい悪いとは、動機(主観的願望)から判断するのだろうか、それとも、効果(社会的実践)から判断するのだろうか。観念論者は動機を強 調して効果を否定するし、機械的唯物論者は効果を強調して動機を否定する。我々はこの両者とは反対に、弁証法的唯物論の、動機と効果の統一論者である。大 衆のためという動機と大衆から歓迎されるという効果とは切り離せないものであり、両者を統一 させなければならない。個人や狭隘な集団のためという動機は良くないが、 大衆のためという動機があっても、大衆から歓迎され大衆に有益であるという効果がなければ、やはりこれも良くない。ある作家の主観的願望、すなわちその動 機が正しいかどう か、善良かどうかを点検するのは、その宣言によってではなく、その行動(主として作品)が社会や大衆の中で生み出した効果によってである。社会的実践およ びその効果が、主観的願望あ るいは動機をする点検する基準なのである。
4-5.     我々の文芸批評にはセクト主義は無用であり、我々は団結と抗日という大原則のもとに、さまざまな政治的態度を含む文芸作品の存在を許すべきである。しか し、我々 の批評はその一方では原則的立場を堅持するのであって、反民族的、反科学的、反大衆的、および反共的な観点を含むすべての文芸作品に対しては、厳しい批評 と反論を加えなければならない。なぜなら、これらのいわゆる 文芸は、その動機、その効果のいずれからしても、団結と抗日を破壊するものだからである。
4-6.     芸術的基準から言えば、 芸術性が比較的高いものはすべて、良いものか、比較的良いものであり、芸術性が比較的低い作品は、悪いものか、比較的悪いものである。こうした区別をする にも、もちろん、社会的効 果を見る必要がある。自分の作品が美しいと考えない文芸家はほとんどいないのであって、我々の批評もさまざまな芸術品の自由競争を許すべきである。しか し、芸術 科学の基準にしたがって正しい批判を加え、より低級な芸術を次第により高級な芸術へと向上させ、広範な大衆の闘争の要求に合致しない芸術を広範な大衆の闘 争の要求に合致した芸術へと変えていくことも、絶対に必要なことである。

4-7.   又是政治标准,又是艺术标准,这两者的关系怎么样呢?政治并不等于艺术,一般的宇宙观也并不等于艺术创作和艺术批评的方法。我们不但否认抽象的绝对不变的 政治标准,也否认抽象的绝对不变的艺术标准,各个阶级社会中的各个阶级都有不同的政治标准和不同的艺术标准。但是任何阶级社会中的任何阶级,总是以政治标 准放在第一位,以艺术标准放在第二位的。资产阶级对于无产阶级的文学艺术作品,不管其艺术成就怎样高,总是排斥的。无产阶级对于过去时代的文学艺术作品, 也必须首先检查它们对待人民的态度如何,在历史上有无进步意义,而分别采取不同态度。
4-8.    有些政治上根本反动的东西,也可能有某种艺术性。内容愈反动的作品而 又愈带艺术性,就愈能毒害人民,就愈应该排斥。处于没落时期的一切剥削阶级的文艺的共同特 点,就是其反动的政治内容和其艺术的形式之间所存在的矛盾。
4-9.    我们 的要求则是政治和艺术的统一,内容和形式的统一,革命的政治内容和尽可能完美的艺术形式的统一。缺乏艺术性的艺术品,无论政治上怎样进步,也是没有力量 的。因此,我们既反对政治观点错误的艺术品,也反对只有正确的政治观点而没有艺术力量的所谓“标语口号式”的倾向。我们应该进行文艺问题上的两条战线斗 争。 
4-7.    政治的基準と言い、芸術的基準と言うが、この両者の関係はどのようなものだろうか。政治は芸術とイコールではなく、一般的な世界観も、芸術創作と芸術批評 の方法とイコールではない。我々は、抽象的な絶対不変の政治的基準を否定するだけでなく、抽象的な絶対不変の芸術的基準をも否定する。それぞれの階級社会 におけるそれぞれの階級にはすべて異なった政治的基準と異なった芸術的基準がある。しかし、いかなる階級社会のいかなる階級も、常に政治的基準を第一に置 き、芸術的基準を第二に置いている。ブルジョア階級は、プロレタリア階級の文学芸術作品について、その芸術的成果がいかに高かろうと、常にこれを排斥す る。プロレタリア階級も、過去の時代の文学芸術作品については、なによりもまず、人民に対する態度がどうであるか、歴史的に進歩的意義があるのかどうかを 点検したうえで、それぞれ異なった態度を取らなけらばならない。
4-8.    政治的には根本から反動的なものであっても、ある種の芸術性を備えていることもありうる。内容が反動的であればあるほど、しかも芸術性を備えていればいる ほど、そうした作品は、ますます人民に有害であり、ますます排斥されるべきである。没落期に あるすべての搾取階級の文芸に共通する特徴は、その反動的な政治内容とその芸術的な形式の間に存在する矛盾である。
4-9.    我々が求めるのは、政治と芸術の統一、内容と形式の統一、革命的な政治内容とできうるかぎり完全な芸術形式の統一である。芸術性に乏しい芸術品は、それが 政治的にいかに進歩的であっても、やはり無力である。したがって、我々は政治観点の誤った作 品にも反対するし、また、正しい政治的観点があるだけで芸術的な力を持たない、いわゆる“スローガン”式の傾向にも反対するのである。我々は文芸問題にお ける二つの戦線の闘争を行うべきである。
4-10.   这两种倾向,在我们的许多同志的思想中是存在着的。许多同志有忽视艺术的倾向,因此应该注意 艺术的提高。但是现在更成为问题的,我以为还是在政治方面。有 些同志缺乏基本的政治常识,所以发生了各种糊涂观念。让我举一些延安的例子。  4-10.    この二つの傾向は、我々の多くの同志の思想の中に存在している。多くの同志には芸術を軽視する傾向があり、したがって芸術の向上には心をそそぐべきである。しかし、 現在、それ以上に問題となるのは、やはり政治の面だと思う。一部の同志には基本的な政治常識が欠けているために、さまざまなあいまいな観念が生まれている。延安での 例をいくつかあげてみよう。
4-11.   “人性论”。有没有人性这种东西?当然有的。但是只有具体的人性,没有抽象的人性。在阶级社会里就是只有带着阶级性的人性,而没有什么超阶级的人性。
4-.12    我们 主张无产阶级的人性,人民大众的人性,而地主阶级资产阶级则主张地主阶级资产阶级的人性,不过他们口头上不这样说,却说成为唯一的人性。有些小资产阶级知 识分子所鼓吹的人性,也是脱离人民大众或者反对人民大众的,他们的所谓人性实质上不过是资产阶级的个人主义,因此在他们眼中,无产阶级的人性就不合于人 性。现在延安有些人们所主张的作为所谓文艺理论基础的“人性论”,就是这样讲,这是完全错误的。 
4-.11    “人間性論”。 人間性といったものがあるのだろうか。もちろんある。しかし、具体的な人間性があるだけで、抽象的な人間性はない。階級社会にお いては、階級性を持った人間性があるだけで、超階級的な人間性などというものはないのである。
4-.12    我々がプロレタリア階級の人間性、人民大衆の人間性を主張するのに対して、地主階級、ブルジョア階級は地主階級、プロレタリア階級の人間性を主張する。だが、彼らは口ではそのようには言わずに、それを唯一の人間性と言いくるめているにすぎない。一部のプ チブル知識人が鼓吹する人間性も、やはり人民大衆から遊離するか、あるいは人民大衆と対立するものであり、彼らの言う人間性なるものは、実質的にはブルジョア階級の個人主義に過ぎず、し たがって、プロレタリア階級の人間性は、彼らの目から見れば、人間性には合致しない。現在、延安の一部の人たちが主張しているいわゆる文芸理論の基礎としての“人間性論”とはこうしたものであり、まったくの誤りである。
4-13.   “文艺的基本出发点是爱,是人类之爱。”爱可以是出发点,但是还有一个基本出发点。爱是观念的东西,是客观实践的产物。我们根本上不是从观念出发,而是从 客观实践出发。我们的知识分子出身的文艺工作者爱无产阶级,是社会使他们感觉到和无产阶级有共同的命运的结果。我们恨日本帝国主义,是日本帝国主义压迫我 们的结果。世上决没有无缘无故的爱,也没有无缘无故的恨。
4-.14    至于所谓“人类之爱”,自从人类分化成为阶级以后,就没有过这种统一的爱。过去的一切统治阶级喜 欢提倡这个东西,许多所谓圣人贤人也喜欢提倡这个东西,但是无论谁都没有真正实行过,因为它在阶级社会里是不可能实行的。
4-.15    真正的人类之爱是会有的,那是在 全世界消灭了阶级之后。阶级使社会分化为许多对立体,阶级消灭后,那时就有了整个的人类之爱,但是现在还没有。我们不能爱敌人,不能爱社会的丑恶现象,我 们的目的是消灭这些东西。这是人们的常识,难道我们的文艺工作者还有不懂得的吗? 
4-13.    “文芸の基本的な出発点は愛である、人類の愛である。” 愛は出発点となりうるが、もう一つ基本的な出発点がある。愛は観念的なものであり、客観的実践 の産物である。我々は根本的には観念から出発するのではなくて、客観的な実践から出発する。我々の知識分子出身の文芸工作者はがプロレタリア階級を 愛するのは、社会が彼らにプロレタリア階級と共通の運命を持っていると感じさせた結果である。我々が日本帝国主義を憎むのは、日本帝国主義が我々を抑圧した結果である。世の中には、けっしていわれのない愛もなければ、いわれのない憎しみもないのである。
4-.14    いわゆる“人類愛”について言えば、人類が階級に分化して以後、こうした包括的な愛は存在したことがない。過去のすべての支配階級は好んでこうした愛を提唱してきたし、また、幾多のいわゆる聖人賢人も好んでこうした愛を提唱してきたが、誰もそれを本当に実行したことはない。なぜなら、階級社会においてはそうした愛を実行することができないからである。
4-.15    真の人類愛はありうるが、それは全世界から階級が消滅した後のことである。階級は社会を多くの対立物に分裂させているのであって、階級が消滅した後には全体としての人類愛が生まれるが、今はまだ存在しない。我々は敵を愛することはできないし、社会の醜い現象を愛することもできない。 我々の目的はこうしたものを消滅することである。これは常識であって、我々の文芸工作者の中にまだわからない人がいるだろうか。
4-16.“从来的文艺作品都是写光明和黑暗并重,一半对一半。” 这里包含着许多糊涂观念。文艺作品并不是从来都这样。许多小资产阶级作家并没有找到过光明,他们 的作品就只是暴露黑暗,被称为“暴露文学”,还有简直是专门宣传悲观厌世的。
4-17. 相反地,苏联在社会主义建设时期的文学就是以写光明为主。他们也写工作中的缺 点,也写反面的人物,但是这种描写只能成为整个光明的陪衬,并不是所谓“一半对一半”。反动时期的资产阶级文艺家把革命群众写成暴徒,把他们自己写成神 圣,所谓光明和黑暗是颠倒的。只有真正革命的文艺家才能正确地解决歌颂和暴露的问题。一切危害人民群众的黑暗势力必须暴露之,一切人民群众的革命斗争必须歌颂之,这就是革命文艺家的基本任务。
4-16. “従 来の文芸作品はいずれも光明と暗黒に同じ比重を置き、半々に描いてきた。” これには多くのあいまいな観念が含まれている。文芸作品は従来そうしたもので はなかった。多くのプチブル作家は光明を見いだしたことがなく、彼らの作品は暗黒を暴露するだけであって、“暴露文学”と称されている。さらにはもっぱら 悲観、厭世を宣伝するだけのものもある。
4-17. これとは反対に、ソ連の社会主義建設の時期における文学は、光明を 描くことを主としている。彼らも活動における欠点を描き、反面的な人物を描きはするが、こうした描写は全体の光明を引き立たせるためのものであって、決し て“半々”というものではない。反動期のブルジョア文芸家は、革命的な大衆を暴徒として描き、彼ら自身を神聖なものとして描いて、いわゆる光明と暗黒を逆 さまにしている。賛美と暴露の問題を正しく解決できるのは、真の革命的な文芸家だけである。人民大衆に危害を与えるすべての暗黒勢力に対してはこれを暴露 し、人民大衆のすべての革命闘争に対してはこれを賛美しなければならない。これこそ、革命的文芸家の基本任務である。
4-18. “从来文艺的任务就在于暴露。”这种讲法和前一种一样,都是缺乏历史科学知识的见解。从来的文艺并不单在于暴露,前面已经讲过。对于革命的文艺家,暴露 的对象,只能是侵略者、剥削者、压迫者及其在人民中所遗留的恶劣影响,而不能是人民大众。
4-19. 人民大众也是有缺点的,这些缺点应当用人民内部的批评和自我批评 来克服,而进行这种批评和自我批评也是文艺的最重要任务之一。但这不应该说是什么“暴露人民”。对于人民,基本上是一个教育和提高他们的问题。除非是反革 命文艺家,才有所谓人民是“天生愚蠢的”,革命群众是“专制暴徒”之类的描写。
4-18. “従来の文芸は暴露を任務としてきた。” こうした論法は 前の場合と同様に、歴史科学の知識に欠けた考えである。従来の文芸が暴露だけをしてきたのではないことは、先にすでに述べた。革命的な文芸家にとって、暴 露の対象となりうるのは、侵略者、搾取者、迫害者と、彼らが人民の間に残している悪い影響だけであり、人民大衆はその対象とはなりえない。
4-19. 人民大衆にも欠点はあるが、これらの欠点は人民内部の批判と自己批 判によって克服されるべきであって、こうした批判と自己批判を行うことも文芸の最も重要な任務の一つである。しかし、これをもって、“人民を暴露する”な どと言うべきでない。人民に対しては、基本的には、彼らを教育し向上させるという問題である。人民は“生まれながらの愚か者”であるとか、革命的な大衆は “専制暴徒”であるとかいった類いの描写をするのは、反革命的な文芸家だけである。
4-20. “还是杂文时代,还要鲁迅笔法。”鲁迅处在黑暗势力统治下面,没有言论自由,所以用冷嘲热讽的杂文形式作战,鲁迅是完全正确的。我们也需要尖锐地嘲笑法 西斯主义、中国的反动派和一切危害人民的事物,但在给革命文艺家以充分民主自由、仅仅不给反革命分子以民主自由的陕甘宁边区和敌后的各抗日根据地,杂文形 式就不应该简单地和鲁迅的一样。我们可以大声疾呼,而不要隐晦曲折,使人民大众不易看懂。如果不是对于人民的敌人,而是对于人民自己,那末,“杂文时代” 的鲁迅,也不曾嘲笑和攻击革命人民和革命政党,杂文的写法也和对于敌人的完全两样。对于人民的缺点是需要批评的,我们在前面已经说过了,但必须是真正站在 人民的立场上,用保护人民、教育人民的满腔热情来说话。如果把同志当作敌人来对待,就是使自己站在敌人的立场上去了。
4-21. 我们是否废除讽刺?不是的,讽刺是永 远需要的。但是有几种讽刺:有对付敌人的,有对付同盟者的,有对付自己队伍的,态度各有不同。我们并不一般地反对讽刺,但是必须废除讽刺的乱用。
 
4-20. “ま だ雑文の時代であり、やはり魯迅の筆法が必要である。” 魯迅は暗黒勢力の支配下にあり、言論の自由がなかったために、冷ややかな嘲笑と激しい風刺という 雑文形式を用いて戦ったのであって、魯迅は完全に正しかった。我々にとっても、ファシズム、中国の反動派、そして、人民に危害を与えるすべての事物を鋭く 嘲笑するのは必要なことだが、しかし、革命的文芸家には十分な民主と自由を与え、ただ反革命分子にだけは民主と自由を与えていない陝西、甘粛、寧夏辺区の 各抗日根拠地においては、雑文の形式も単純に魯迅と同じものであってはならない。我々は声を大にして叫ぶことができるのであり、言葉をにごしたり遠回しに 言ったりして、人民大衆にわかりにくくする必要もない。人民の敵に対してではなく、人民自身に対してであれば、“雑文時代”の魯迅も、革命的人民と革命的 政党を嘲笑または攻撃したことはなかったし、その雑文の書き方も、敵に対する場合とはまったく異なっていた。人民の欠点に対して批判が必要であることは、すでに話したとおりであるが、しかし、真に人民の立場に立って、人民を保護し人民を教育するというあふれるばかりの情熱をもって語らなければならない。かりに、同志を敵として扱うなら、自分を敵の立場に立たせることになる。
4-21. 我々は風刺を止めるべきか。そうではない。風刺は永遠に必要である。しかし、風刺にもいくつかの種類がある。敵に対する風刺と、同盟者に対する風刺と、自己の隊伍に対する風刺とでは、その態度にそれぞれ違いがある。我々は一概に風刺に反対するというわけでないが、風刺の乱用は止めなければならない。
4-22.  “我是不歌功颂德的;歌颂光明者其作品未必伟大,刻画黑暗者其作品未必渺小。”你是资产阶级文艺家,你就不歌颂无产阶级而歌颂资产阶级;你是无产阶级文艺 家,你就不歌颂资产阶级而歌颂无产阶级和劳动人民:二者必居其一。歌颂资产阶级光明者其作品未必伟大,刻画资产阶级黑暗者其作品未必渺小,歌颂无产阶级光 明者其作品未必不伟大,刻画无产阶级所谓“黑暗”者其作品必定渺小,这难道不是文艺史上的事实吗?对于人民,这个人类世界历史的创造者,为什么不应该歌颂 呢?无产阶级,共产党,新民主主义,社会主义,为什么不应该歌颂呢?
4-23. 也有这样的一种人,他们对于人民的事业并无热情,对于无产阶级及其先锋队的战斗和胜 利,抱着冷眼旁观的态度,他们所感到兴趣而要不疲倦地歌颂的只有他自己,或者加上他所经营的小集团里的几个角色。这种小资产阶级的个人主义者,当然不愿意 歌颂革命人民的功德,鼓舞革命人民的斗争勇气和胜利信心。这样的人不过是革命队伍中的蠹虫,革命人民实在不需要这样的“歌者”。
4-22. “私 は功績や徳行を賛美しはしない。光明を賛美する者はその作品が偉大とは限らないし、暗黒を描き出す者はその作品が矮小とは限らない。” ブルジョア階級の 文芸家ならば、プロレタリア階級を賛美せずにブルジョア階級を賛美するだろうし、プロレタリア階級の文芸家ならば、ブルジョア階級を賛美せずに、プロレタ リア階級と勤労人民を賛美するだろう。この二つのうちのどちらかである。ブルジョア階級の光明を賛美する者はその作品が偉大であるとは限らず、ブルジョア 階級の暗黒を暴露する者はその作品が矮小であるとは限らない。プロレタリア階級の光明を賛美する者はその作品が偉大でないとは限らず、プロレタリア階級の いわゆる“暗黒”を描き出す者はその作品が必ず矮小なのである。このことを文芸史上の事実ではないとでも言うのだろうか。人民、この人類世界の歴史の創造 者を、なぜ賛美すべきでないのか。プロレタリア階級、共産党、新民主主義、社会主義をなぜ賛美すべきでないのか。
4-23. また、ある種の人々は、人民の事業に対してはまったく熱意を持たず、プロレタリア階級とその前衛隊の戦闘と勝利に対しては冷たい目でこれを傍観する態度を取る。彼らが興味を感じ、飽きもせず賛美するのは、自分自身か、あるいは自分の主宰する小グループの幾人かの連中にすぎない。こうしたブチブルの個人主義者は、もちろん、革命的な人民の功績や徳行を賛美することも、また、革命的な人民の闘争への勇気や勝利に対する確信奮い立たせることも望まない。このような人々は革命的な隊列の中の紙魚にすぎず、革命的な人民はこのような“歌い手”をまったく必要としていないのである。
4-24.  “不是立场问题;立场是对的,是好的,意思是懂得的,只是表现不好,结果反而起了坏作用。”关于动机和效果的辩证唯物主义观点,我在前面已经讲过了。 现在要问:效果问题是不是立场问题?一个人做事只凭动机,不问效果,等于一个医生只顾开药方,病人吃死了多少他是不管的。又如一个党,只顾发宣言,实行不 实行是不管的。试问这种立场也是正确的吗?这样的心,也是好的吗?事前顾及事后的效果,当然可能发生错误,但是已经有了事实证明效果坏,还是照老样子做, 这样的心也是好的吗?
4-25.   我们判断一个党、一个医生,要看实践,要看效果;判断一个作家,也是这样。真正的好心,必须顾及效果,总结经验,研究方法,在创作上 就叫做表现的手法。真正的好心,必须对于自己工作的缺点错误有完全诚意的自我批评,决心改正这些缺点错误。共产党人的自我批评方法,就是这样采取的。只有 这种立场,才是正确的立场。同时也只有在这种严肃的负责的实践过程中,才能一步一步地懂得正确的立场是什么东西,才能一步一步地掌握正确的立场。如果不在 实践中向这个方向前进,只是自以为是,说是“懂得”,其实并没有懂得。
4-24.  “立場の問題ではない。立場は正しく、意図も よく、理屈もわかっている。ただ表現がまずかったために、逆に悪い作用を及ぼすことになったのだ。” 動機と効果についての弁証法的唯物論の観点に関して はすでに先に述べた。ここで問いたいのは、効果の問題とは立場の問題かどうかということである。ある事をするのに、ただ動機だけに頼って、その効果を顧み ないならば、それはまるで、医者が処方箋を書くだけで、病人がその薬を飲んでどれだけ死のうとまったく問題にしないのと同じである。またそれは、政党が宣 言を発表するだけで、その宣言を実行するかどうかについては問題にしないようなものである。このような立場でも正しいと言えるだろうか。このような意図で もよいと言えるだろうか。もちろん、事前に事後の効果を考えておいても、誤りの起こることはありうる。しかし、効果の悪いことがすでに事実によって立証さ れているのに、なおもこれまでのやり方でいこうとするならば、この意図はそれでも良いと言えるだろうか。
4-25.   我々がある政党、ある医者を判断するには、その実践を見、その効果を見る必要がある。作家を判断するのもそれと同じである。真に良い意図だと言うならば、その効果を考慮し、 経験を総括し、方法、すなわち創作上では表現の手法と呼ばれるものを研究しなければならない。真に良い意図だと言うならば、自己の活動の欠点と誤りについ て、完全に誠意のこもった自己批判を行い、また、それらの欠点と誤りを改める決意を持たなければならない。共産党員の自己批判はこのような方法を取るので ある。このような立場だけが正しい立場なのである。同時にまた、このような厳粛な、責任ある実践の過程においてのみ、正しい立場とはどんなものであるかを 一歩一歩理解し、正しい立場を一歩一歩把握することができるのである。実践の中でこの方向に進まないなら、ただ独りよがりになって、「わかっている」と言いながら実際にはわかっていないということになるのである。
4-26. “提倡学习马克思主义就是重复辩证唯物论的创作方法的错误,就要妨害创作情绪。”学习马克思主义,是要我们用辩证唯物论和历史唯物论的观点去观察世界, 观察社会,观察文学艺术,并不是要我们在文学艺术作品中写哲学讲义。马克思主义只能包括而不能代替文艺创作中的现实主义,正如它只能包括而不能代替物理科 学中的原子论、电子论一样。空洞干燥的教条公式是要破坏创作情绪的,但是它不但破坏创作情绪,而且首先破坏了马克思主义。教条主义的“马克思主义”并不是 马克思主义,而是反马克思主义的。
4-27.   那末,马克思主义就不破坏创作情绪了吗?要破坏的,它决定地要破坏那些封建的、资产阶级的、小资产阶级的、自由主义的、 个人主义的、虚无主义的、为艺术而艺术的、贵族式的、颓废的、悲观的以及其他种种非人民大众非无产阶级的创作情绪。对于无产阶级文艺家,这些情绪应不应该 破坏呢?我以为是应该的,应该彻底地破坏它们,而在破坏的同时,就可以建设起新东西来。
4-26.   “マルクス主義の学習を提唱することは、弁証法的唯物論の創作方法の誤りを繰り返すことであり、創作の気分を損ねることになる。” マルクス主義を学習 するのは、弁証法的唯物論と史的唯物論の観点から世界を観察し、社会を観察し、文学芸術を観察するためであって、文学芸術作品の中に哲学の講義を書くため ではない。マルクス主義は、文芸創作におけるリアリズムを含みえても、それに取って代わることはできない。それはちょうど、マルクス主義が物理学における 原子論、電子論を含みえても、それらに取って代わることができないのと同じことである。中身のない、ひからびた教条的公式は、創作の気分を破壊するものだ が、それは、創作の気分を破壊するばかりでなく、なによりもまずマルクス主義を破壊するのである。教条主義的な“マルクス主義”は決してマルクス主義ではなく、マルクス主義に背くものである。
4-27.   それなら、マルクス主義は創作の気分を破壊しないのかと言えば、それは破壊するのである。あの、封建的、ブルジョア階級的、プチブル的、自由主義的、虚 無主義的、芸術のための芸術的、貴族的、退廃的、悲観的な、そしてまた、その他さまざまの非人民大衆的、非プロレタリア階級的な創作の気分を決定的に破壊 するのである。プロレタリア階級の文芸家にとって、これらの気分は破壊すべきかどうか。私の考えでは、破壊すべきであり、徹底的にこれらを破壊すべきで あって、破壊すると同時に、新しいものを建設することができるのである。

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