文革期文学とは何か
—その辞書的定義—
岩佐昌暲
| 1.文革期文学の定義と名称 定義 ここで「文革期文学」というのは1966年−76年の期間、つまり文革期に出現した文学(作品、批評、文学理論)を指す。従って文革後に書かれた、文革に取材した文学はここに含めない(これは「文革を描いた文学」とよぶべきであろう)。 名称 中国では八十年代にはこの時期の文学を「文革文学」という風な特定の名称で呼ぶことはなかった。「文革期は文学空白の時期だ」という認識からすれば、それはそれで筋の通った話である。管見の範囲では最初に「文革文学」という語を用いたのは潘凱雄・賀紹俊 【1】で ある。この論文は「ゆるやかな基準」で考えれば文革期にも文学活動があったではないか、と主張し、文学のあったことを認め、それを研究すべきだと呼びかけ たものだが、本文では「"文革"文学」のように記している。九十年代になって文革期の文学活動への研究が進むにつれ「"文革"文学」という呼称は次第に使 用されるようになる。この時期の文学研究で現在最も多産な研究者である王尭【2】 は「"文革文学"」という語を用い始めているし、洪子誠【3】 も「"文革文学"」という用語を使っている。だが、その一方で、文革を描いた文学を「文革文学」と呼ぶ研究者もいる。例えば、許子東【4】 などがそうである。つまり、「文革文学」という言い方であると、'literature about Cultural revolution 'と'literature during Cultural revolution 'の両方が含まれることになり正確さを欠く。「文革期文学」(文革時期文学)という用語を提唱したい。 2.二種類の文学 文革期の文学には、A.体制に公認された出版物の形で流布した文学(これをとりあえず「公然文学」とよぶことにする)と、B.回覧や手抄、手紙などの形で個人やごく狭いグループ間で流布した非公然の文学【5】 (これを楊健に倣って「地下文学」ということにする【6】 )の二種類があった。この二種の文学は基本的に交わることがなかったので、これを別々に考察するほかない【7】 。 3.時期区分 文革期の公然文学にもその発展消長の歴史があった【8】 。私見によればそれを大きく3期に区分することができる。 a.混沌期(1966年) 文革開始(1966年5月)の最初の一年である。これまで文壇を構成していた中国文芸連合界‐中国作家協会‐(所属作家)‐地方組織‐(所属作家)に対する批判・攻撃が激しくなり、文芸界の枠組みが崩壊【9】 、文芸雑誌【10】も停刊になった 文学的空白期。 b.始動期(67−72年) 江青が文芸界の指導権を握り、京劇の改作など演劇界を中心に「文革期文芸」の確立を目指し始めた時期。文芸界の人士への批判・攻撃は続き、文芸関係の出 版物不在のままで、小説も文芸批評もほとんど見られない。文学活動としては『人民日報』や紅衛兵新聞などに散発的に発表される毛沢東と革命への忠誠を歌っ た詩文・快板など民間芸能の形式を利用した実権派批判・毛沢東語録の歌唱化や、紅衛兵による歌舞をともなった宣伝活動が主だった。いわば文革期文学の混 沌・萠芽期といっていい。 c.展開期(72−76年) 当時の党中央宣伝部門が、停刊していた雑誌を復刊させ、労農兵出身の作家(いわゆる「業余作家」)を養成し、既成作家を部分的に解放したりして、新興労 農兵勢力による文壇構築をはかった時期である。これらはすべて1972年のことである。72年は文芸講話発表30周年に当たり、これを機に文学活動が正式 に再開されたわけである。文芸雑誌も全国誌を除いて復刊する。三結合の執筆グループによる報告文学、72年の講話30周年記念徴文活動のなかで発掘された 青年作家たちの短編集の出版など全国的に文芸界再建の動きが進む。文革の中心地だった上海を例にとると、朝霞叢書、雑誌『朝霞』の刊行などを経て、だいた い74年には新しい文学者集団が形成されたと考えられ、これは全国的にも同じ状況だったとみていいのではないか。新しい文学界の主体となったのは知識青年 出身の労働者・農民・兵士、いわゆる業余作家たちである。 この72年から76年までが文革期文学の展開期である。この期間は中国共産党内部で文革推進派と文革批判派の激しい権力闘争が、「批林批孔」「水滸伝批 判」「走資派批判」「鄧小平批判」などの名を冠した大衆的政治運動として展開されていた時期であり、文学も基本的にはこの運動=権力闘争に文革推進派の立 場で参画した。だがそれも76年10月「四人組」の逮捕によって唐突に終焉する。 しかし76年10月以後も政治体制や社会心理は依然文革期の継続であり、新しい文学精神が「新時期文学」として定着するのは八十年代に入ってからである。 4.文学的特徴 次に文革期公然文学の特徴を考えてみる。<文革期文学>は一口に言えば「政治優先、変形されたロマンチシズム、意識的に採用された粗野で非知性的な文学表現、性表現の忌避」などの特徴を強くもつ文学である。特徴を以下に列挙する。 a.創作動機と主題の政治性(文革の政治過程のそれぞれの時期の政治目標に奉仕するという明確な創作目的、ないし動機がある)【11】。 b.作者の非私性・無名性・匿名性(作者は個人の私的な感情や思想を表現せず、仮想された集団[我々]の思想や感情を述べている。また作品自身がしばしば本名ではなく集団[例えば三結合写作小組等]の名で発表される)【12】 。 c.言語・文体の戦闘性・煽動性(〈敵〉の暴露と打倒、〈味方〉の士気高揚にむけて読者の感情を組織しようとする言語・文体の意図的多用)。 d.感性の偏向(感傷、哀感、繊細な[暗い・しっとりした]感性の徹底的排除、逆に豪快、粗放、殺伐、激越な[暴力的な、ドライな]感性=変形されたロマンチシズムの重視 【13】)。 e.<性>的表現や性を連想させる表現の忌避・抹殺【14】 。 5.方法/理論 文革期文学の方法・理論は次のように規定できる。文革理念実現を目指し、文革体制擁護の[文芸講話を基調とし、三十年代文学と建国後十七年の文学の否定 の上に打ち立てられた、『紀要』を根拠とする政治突出の]文学理論・創作方法/「反」或いは非文革体制[リアリズム或いはモダニズムを基調とした]文学理 論・創作方法。 6.文学史的位置づけ 文革期を文学的空白と見るべきではない。それは当代文学史の中の一つの確たる文学時期である【15】 。公然文学は十七年の文学の一種の必然的帰結であり、地下文学は八十年代モダニズム文学の先駆である。ただこの時期の文学(1976年の天安門詩歌運動も含めて)を、新時期文学に対してどう位置づけるかは簡単には結論の出せない問題(将来の課題)である【16】。 [注] 【1】凱雄・賀紹俊「文革文学:一段値得重新研究的文学史」(『鍾山』1989年2期) 【2】例えば、王尭「関於“文革文学"的釈義与研究」(『文芸理論与研究』1999年5期)など。 【3】洪子誠『中国当代文学史』北京大学出版社、1999年8月 【4】例えば、許子東『為了忘却的集体記憶:解読50篇文革小説』三聯書店、2000年4月 【5】文革期に非公然の文学活動のあったことは経験的に知られている事実だった。文革後出版された小説、張揚「第二次握手」、北島「波動」、[革+斤] 凡「公開的情書」などのほかに、郭路生の詩、後の《今天》のメンバーたちによる詩作品など、それらはその文学的質や読み手に与える衝撃力においてはるかに 公然文学を超えていた 【6】楊健の『文化大革命中的地下文学』朝華出版社、1993年1月、はそうした作品やその作者たちを掘り起こして「地下文学」として提示した。こうし て、文革期の文学活動を全面的に考察する路が開けた。この点で楊健の功績は大きい。洪子誠前掲書は「"文革"期間の文学には、二つの異なる部分が存在して いた。一つは公開の出版物に発表されていた作品で、もう一つは秘密あるいは半秘密状態で書かれ、伝播した作品である。後者について、"地下文学"の概念を 使っている研究者もいる」と書いている。 【7】「公然文学」と「地下文学」の大きな区別は「公然文学」が文革の政治的枠組み(「文化を含む上部構造諸領域の革命」)の中で機能し、あるいは機能 することをめざしたのに対し、「地下文学」は本質的にその枠組みをはずれた地点で書かれたという点であろう。 【8】これまでの文学史で文革期文学の時期区分を試みたものとして陳思和『中国当代文学史教程』をあげることができる。陳によれば、江青らはまず「政治 的異分子勢力と文化思想上の伝統的要素を全て除き去ったのち」「"プロレタリア階級文芸の新紀元"の開始を宣言」し、「自らの政治闘争に奉仕する高度に政 治化・概念化された文芸創作」を展開した。その結果文革の全期間に公に出版された文学が総体として荒廃、枯渇、畸形な発展をとげるという局面をつくりだし た」。この文学にも段階的変化の過程があるが「こういう高度に政治化された文学の変化は、当然政治的事件と密接な関係がある」と述べ、以下のような時期区 分(要旨)をおこなっている。 第一段階(1966年5月〜1971年9月) 文革開始時期の1966年5月の中共中央政治局拡大会議、と8月の八期十一中全会とし、それ以後1971年9月林彪事件発生まで。この時期は"革命模範 劇"が最も提唱され、影響力のあった文芸作品。国家のコントロール下にある映像・活字メディアを通じて強制的に人民に浸透し、少なくとも表面的には文革期 の精神的象徴となっていた。この過程で"三突出""三結合"等のモデル化された文学創作観念が形成された。 第二段階(1971年9月〜1974年12月) 指導層の変動(林彪グループの失脚)にともない、国家の文芸政策にも変化が生まれた。停刊していた文芸雑誌の復刊、文芸書の出版が一定の限度内で再開さ れた。文芸創作も開始されたが、同時に文芸をめぐる政治闘争も激しくなった(陳は1973年の湘劇「園丁之歌」批判を例としてあげる)。 第三段階(1975年1月〜1976年10月) 75年1月全国人民代表大会で周恩来が「四つの現代化」を提起、周恩来・鄧小平体制による文革の行き過ぎに対する調整政策が実行された。この結果江青ら 極左集団と周恩来・鄧小平らの政治闘争が激化した。この闘争は文芸領域で際立ち、江青らによる映画「創業」、「海霞」に対する批判をめぐって顕在化した。 毛沢東は「創業」を支持、これより文芸政策の調整が始まった。76年には『人民文学』など全国的文芸誌が復刊した。またこの前後から葉辛、張抗抗、王小 鷹、賈平凹ら知識青年らが個人の名で文芸誌に作品を発表し始めた。これらの作品は文革後の知識青年文学の発端だった。"四人組"はこの時期「走資派と闘争 する」映画、演劇を作り政治的浮揚を図ろうとした。こうした衝突と闘争は76年の天安門事件で頂点に達した。 以上は「公然文学」の時期区分だが、楊健は「地下文学運動」について時期区分を試みている。公然文学としての文革期文学を考える上でも参考になると思うので摘録しておく。 「1966年5月〜1969年4月。これは文革の全面的動乱、内戦の時期である。1969年4月党の"九全大会"(中国共産党第九回全国代表大会)が開か れ、新たな党と国家の指導部が形成された。その後紅衛兵組織は解散させられ、強制的に農村に下放させられた。幹部は"五・七"幹部学校に追われた。党中央 の指導層のいわゆる"右派集団"(教師を含む)は北京を放逐され、三線に下放された。社会秩序は安定期に入った。これより前の二年間の文革運動期には、主 として紅衛兵文芸活動が"地下文学"の主導だった。 1969年4月〜1971年"9.13事件"(林彪事件)。全国は「闘争‐批判‐改革」の時期に入った。最初の地下サロンが生まれ、極左路線、文化独裁政治と対峙した。この時期の最大の収穫は一群の批判的リアリズムの作品が生まれたことである。 1972年から1974年。文化大革命の谷間の時期である。周恩来の指導する"林彪批判整風"運動のなかで、極左路線は抑制され、全人民的に目に見えな い思想解放運動が始まった。この特定の環境下で、"地下サロン"が活発化し、1973年には絶頂期に入った。最後にはモダニズムの色彩を帯びた一群の詩作 が生まれるにいたった。 1974年〜1976年10月。"四人組"と真っ向から闘った時期。江青集団と"地下文学"が全面的な包囲討伐と反撃戦をおこなった。陳毅同志の逝去を 巡って、全人民の中に『陳毅詩詞』や追悼詩詞が手書きで伝わったり、一部の"地下サロン"の主宰者や地下文学の作者が逮捕され入獄したりした。闘争は丙辰 清明(1976年4月)の天安門広場の詩歌運動の中で最高潮に達し、この後一群の力作が出現した。」(楊健、前掲書「引言」) 【9】1966年2月江青が上海で秘密裏に「部隊文芸工作座談会」を開いた。その記録(「林彪同志委託江青同志召開的部隊文芸工作座談会紀要」、通称『紀 要』には「建国以来の文芸界では(中略)毛主席の思想と対立する反党・反社会主義の黒い糸がわれわれに独裁をふるっていた」と書かれていた。この文言はそ の後文革の全期間にわたって文革前の文芸界に関わりのあった人々を打倒する根拠となった。66年4月以後文芸界に対する批判は部分的に始まっていたが、そ れが全国的に拡大するのは、6月1日『人民日報社説』が文芸界・思想界の「すべての妖怪・変化を一掃せよ」と呼びかけ、ついで6月22日「文化部徹底干浄 [手偏+高]掉反党反社会主義反毛沢東思想的黒線闘争的請示報告」が中央文件として全国に伝達されて以降のことのようである。この文書は文芸界には「長く て太く、深くて黒い反毛沢東思想の黒い路線が存在している」それを徹底的に掘り出し一掃せよと述べていた。こうして中央から地方に至る文芸界(具体的には 文学・芸術家連合界、作家協会とその地方組織、それに所属する党幹部、作家、詩人、出版関係者など、要するに既成の「文壇」そのもの)は批判を受けて66 年中には崩壊するのである。 【10】1966年7月から全国の文芸出版物は『解放軍文芸』(これも68年10月でいったん停刊、72年4月に復刊する)を除いて発行停止となる。 【11】このことは、文革が上部構造におけるブルジョアジーの権力を一掃してプロレタリア階級の権力を打ちたて、「プロレタリア階級自身の新思想、新文 化、新風俗、新習慣によって社会全体の精神的様相をあらため」「社会主義の経済的土台に適応しない(文化の諸領域を含む)すべての上部構造を改革して、社 会主義制度の強化と発展に役立てる」(「中国共産党中央のプロレタリア文化大革命についての決定」1966年8月)ことを目指すものであり、公然文学がそ の一翼を担うもの(文革政治の道具)として出発した以上当然のことである。こういう高度の政治性こそ文革期公然文学の最大の特徴である。 【12】この問題についてはいろいろな面から考える必要がありそうである。例えば、文革期の「破私立公」のスローガンが示すような社会思想、個人の名利思 想を否定する倫理観などの問題。また批判を受けている一部の作家が運動の必要上作品を書くが実名では発表できない、そういう人物が労農兵の創作グループを 指導していて名前が出せない、などの事情。また、1972年以後は個人の名による創作の発表が行われるようになることの理由なども併せて考える必要があろ う。 【13】これは文革期公然文学が目指したのが闘いの中から誕生する「プロレタリアートの英雄像」を作り上げることだったこと、文革期の「知識人」が「改 造」の対象であったため、その属性たる知識人的な感情や思考、言語表現などがマイナスの価値しかもたなくなったことなどが関係しているだろう。 【14】文革期文学では<性>はもちろん、恋愛感情あるいは夫婦間の愛情さえ描写が忌避された。この原因は文革期文学にのみあるわけではなく、中国共産党 のこの問題についての封建的体質、中国社会の封建的(儒教的)な土壌、十七年の文学が<性>に繋がる文学表現を抑圧してきたことと無関係ではない。 【15】陳思和(『中国当代文学史教程』)は当代文学の分期を「第一段階:1949年‐1978年」「第二段階:1978年‐1989年」「第三段階: 90年代」の三つに区分している。これは一般の文学史が文革期を一つの文学時期として立てているのと異なっている。その理由について彼は「もし当時公に発 表された文学創作に依拠すれば、このような(文革期を一段階とする)時期区分も結構である。だが(中略)"文革"前も"文革"中も中国大陸の当代文学には ずっと潜在的創作が存在していた。政治運動の中で執筆の権利を奪われた知識分子たちも自分の理想や感情世界を書きつづけていた。(中略)これらの文章は当 時の環境下では発表不可能だったが、やはり珍重するに足る文学の声を留めている。それらは"文革"前に書かれたものも"文革"中の創作も、実は実質的な区 別がない。そのような(創作の質・内容という)角度から文学史を考察するなら、"文革"前と"文革"中の文学はやはり一つの比較的大きな文学史の段階と見 なすことができる」と述べている(「緒論:中国当代文学的源流、分期和発展概況」)。 【16】文革期文学を当代文学史全体のなかでどう位置付けるかは難しい問題である。文革によって建国後十七年間蓄積されてきた当代文学の成果が、組織、人 材、作品のすべてにわたって壊滅的な打撃を受けたのは事実である。これまでの文革期文学史は、多くその観点から文革期の文学を十七年と切り離してとらえ、 これを"四人組"が政治権力を握るために使った装置=「陰謀文学」として批判してきた。だが、本当にそうだったのだろうか。文革期文学は孤立した異常な文 学現象ではなく、むしろ十七年の必然的な帰結とみるべきではないのか。例えば、私は文革前の『詩刊』を調査してそのことを強く実感した。 また、文革期の様々な文学現象を「文学」の視点から再検討すると文革期文学には違った評価が下されるのでないか、とも思う。例えば労農兵、知識青年の業 余作家(詩人)の積極的な育成がはかられたこと、しかしその最も活躍した作者たちは結局文革後文学の世界に再登場することはなかった、というふうなことを 「文学」の問題としてどう考えたらいいか、というような問題である。あるいはこの時期の「地下文学」をどう考えるか、というのも興味深い問題である。例え ば、河北省白洋淀に下放した知識青年たちの文学活動や、北京の文学青年たちの「サロン」活動が、新時期文学のモダニズム詩の源流となったことは言うまでも ないし、新時期文学の多くの作家が文革をかいくぐった人々であるのも事実である。が、だからといって文革期文学と新時期文学を簡単に結びつけるわけにはい かないだろう。 こうしたことを考えると文革期文学に、そう簡単に評価をくだすことはできないのである。 |
公開日:2003年3月19日