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高紅十と『理想の歌』を中心に 岩佐昌暲
はじめに
「四人組」が打倒されてからもう五年になる。その間の中国の変化は、すさまじいの一語に尽きる。プロレタリア文化大革命はまったく否定され、文革のため
「党と国家と人民は建国いらい最大の挫折と損失をこうむった」、文革は「いかなる意味でも革命とか社会的進歩ではなく、また、そうしたものではあり得な
かった」と断罪された[1]。文革いらい消息を絶っていた幹部、学者、文化人はもうほとんど名誉回復され、第一線に復帰している。文芸界も例外ではなく、いちいち名前を挙げていけばきりのないほどの作家、詩人、劇作家が姿を見せ、仕事を再開している。
だが、その一方、「四人組」の時代にさかんに活躍していた人々で、76年10月以降消息を絶った一群の作家、詩人たちがいる。彼らはおおむね七十年代に
なってから頭角をあらわした人々であり、作品そのものの質が文革前の大家たちの水準を凌駕するとはいいがたいこともあって、わが国では知られない人が大多
数である。彼らは恐らく「四人組」集団と──あるいは「四人組」の路線、政策と深くかかわっていたがゆえに、政治的評価ぬきに彼らについて語ることは、い
まの中国では極めて困難なことなのであろう。さらにわが国でも、彼らについてなにごとかを書くことのはばかられるような空気がなくもない。
多分そのためでもあろう、復活した作家たちについては盛んに語られながら、こうして消えていった人々について語られる事はほとんど稀れである。だが、「四
人組」時代の実相を明らかにしようとすれば、これらのひとびとについて語ることは不可避となる。なぜなら、彼らもまた彼らの真実を描いたのであり、彼らに
よって書きとめられたものは、やはり、まぎれもなく七十年代のある実相にほかならないからである。たとえ歴史の真実は復活した人々の側に属するとして
も……。
高紅十という名を記憶している人は、日本人はもとより、中国人のなかにさえそれほど多くはないだろう。だが、1974年に発表された長篇詩『理想の歌』の
作者の一人だといえば、ああ、とうなずく人も何人かはいるかもしれない。高紅十というのは、その程度の──つまり、「四人組」が権力を握っていた時代に書
かれた一篇の詩によって、辛うじて想い起こされるような小さな存在にすぎない。 これは、この若い──詩人と言うほどには成熟してもいず、かといってただの文学好きの女の子とも違う、一人の(今となっては)無名の娘と、その作品の紹介である[2]。 1 『理想の歌』は「北京大学中文系文学専業七二級工農兵学員」によって1974年に集団創作され、同年9月人民文学出版社から王恩宇、紀宇などの既成詩人たちの詩とともに一冊の詩集──その題名も『理想の歌』と名づけられていた──にまとめられて出版された[3]。
『理想の歌』は全篇四章、540行から成る長詩である。それは抒情詩というには情感より理屈に勝り、抒事詩というにはやや物語性に乏しい。この詩集の書評
を書いた蒋士枚、石湾は「政治抒情詩」という範疇を設け、このような詩は「“政論”の色彩をもたねばならず、また詩の意境ももたねばならない。この二者を
有機的に結びつけようとすれば、作者は、政治概念と哲理的性格とをもった語彙を、鮮明で生き生きとした芸術的形象とあふれるような革命的激情のなかで溶か
さねばならない」とし、『理想の歌』を、そのような性格をそなえた「政治抒情詩」として位置づけている[4]。では、政治的抒情詩『理想の歌』とは、どのような詩なのであろうか。 紅い太陽/白い雪/青い空……/東風に乗って/春を知らせる雁の群れ。/太陽の昇る北京を/発って/大空を翔け/宝塔山(延安にある山)につき/つばさを/延河(延安を流れる川)の両岸にやすめた
雪におおわれた陝北、革命の聖地・延安に飛来した雁の群れ──それはここに住みつくため北京からやってきた知識青年(「学校出の青年」の意。一般には初級
中学から大学までの卒業生をさす)たちの比喩である。このような書き出しにはじまるこの詩は、新しく来た青年たちの「革命的青年の理想とは何か、どのよう
に理解し、どのように実践するのか」という問いに、先輩である知識青年「私」が答えるという形で展開する。第一章は「私」が延安にやってくるまでの回顧で
ある。 私がはじめて/目をあけたとき/祖国はちょうど満天に朝霞たちこめる夜明けであった。/よちよち歩きできるようになるや/すぐに足をふみしめた/紅い甲板に/まっこうからふりかかってきたのは/前進する船の/けたてる波濤であった。
ここに暗示されているように、「私」は中国の解放とともに生まれた、いま30歳くらいの青年である。そして、以下に展開される「私」の回想は、この世代の
人々の共通体験といっていいだろう。「私」の幼年期は革命戦争の記憶もまだなまなましい時期であった。身売りされた女工であったや、大人とともに戦斗に加わった──「私」の周りの大人たちはまだ旧世界の血と抑圧の匂いをただよわせていた。だが、「私」にとってはそれは無限の可能性を秘めた輝かしい未来のはじまりであった。 多くの絵巻きが/目の前にくりひろげられた/どの絵が/いちばんすばらしい未来だろうか?/理想の船の帆は/このように/するするとあがり/四方の風が/このように/それを吹き動かしたのだった……。
こうして始まった「私」の幼年時代は、大躍進の熱狂、反右派闘争、廬山会議などの激動のなかで過ぎていく。「わたしは戦火とびかう時代には/間にあわな
かったけれど/身辺はいぜんとして/暴風急雨であった!」そのなかで「私」もまた路上に鉄をひろい、大人たちが書く批判原稿のため墨をする。それがいった
い歴史のなかでどういう意味をもつかも知らず。しかし、長ずるに従い、「私は理解した/創業の道は/革命の先輩たちが/いのちと鮮血で敷きひらいたものだ
ということを」献身の英雄・雷鋒の物語に心うたれて育った「私」はやがて「中ソ論争」の意味をも理解するようになる。 革命に生命を捧げた烈士たちの目が/大声で尋ねているようにみえる/「われわれの理想を/どのように実現してくれるのだ?/まだ終わらない事業を/誰が継承してくれるのだ?」……
やがて、また七、八年がすぎて、プロレタリア文化大革命という「世界を震憾させる雷鳴」がとどろいた。「私」もまた「革命大軍の行列の中」にいたのであ
る。詩には「四旧一掃をとなえた大字報を/一夜のうちに/全市に貼りめぐらし」革命的大交流のために全国に散った紅衛兵の運動も、66年8月毛沢東主席が
全国から集まった紅衛兵の大群を接見したことも、まるで昨日の出来事のような感激を込めて書きとめられている。プロレタリア文化大革命の嵐の中に身を投じ
た「私」は、修正主義思想の批判、労働者の話、農民との交流を通して、「労農兵と結びつくことだけが/これこそが/革命の理想に至る/唯一のみちなの
だ……」ということを理解する。
1968年12月21日「知識青年が農村に行き、貧農下層中農の再教育を受けることは、まことに必要である」というよびかけが全国に放送される。これよ
り、紅衛兵の<上山下郷>(農村に行って定住する>運動が激流のようにくりひろげられるようになる。それは旧い世界と精神的にも現実的にも決裂し、労働
者、農民、兵士大衆──つまり労農兵と結びつくために通らねばならぬ道と考えられたのである。 「知識青年は農村へ行こう……」/毛主席が/進軍の号令を発した!/百川、海に帰し/万馬、奔騰し/決心書の下/並ぶ署名は/長い龍のよう。 接待所の前で/同学の少年たちは/出征の命令を待つ!/ああ、必勝不敗の幼芽が/火と燃える年代に/誕生したのだ! こうして「私」は、仲間たちとともに延安にむかう。詩はその前夜、中南海に行き、夜を徹して「上山下郷徹底革命(農村に住んで最後まで革命をやりぬこう)」というスローガンを書く「私」の描写をもって第一章を終る。
延安に着いた「私」は、鍬で手に血まめをつくり、荊棘で服を破られながら、しだいに農業を覚えていく。農民たち、そしてかつて革命根拠地であったこの土地
では、革命戦争のときの戦士たちが──「老八路」や「老婦連」(婦連は婦女連合会の略)たちが、かつてと同じ意気込みで社会主義建設のために全力を尽して
いるのだった。彼らは「浮華のことばも奇麗なことばも話さない」しかし、その行動で「私」を教育する。このような生活のなかで、「私」は理解しはじめる。 私は理解しはじめた/個人の理想の詩篇など/ありはしなかったのだということを/われわれ革命青年の理想は/全プロレタリアートによって書かれ/何千万、何百万の人々を/呼び集めねばならないのだ!
延安での生活は決して楽なものではない。酷しい労働に明け暮れる毎日を、支えきれない若者が出て来たとしても、少しも不思議ではない。おそらく、平凡な、
ただ苦しいだけの単調な毎日に、さまざまな不満がうずまいたに違いない。「無味乾燥だ」とか「農村は遅れている、変えられるものではない」といい出すもの
があったことも、この詩にはちゃんと書かれている。だが、「私」はそうは考えない。「農村は/私を必要としているが/私は/もっと農村を/必要としている
のだ/貧農下層中農の希望/それこそ私の志願だ/プロレタリア階級の理想を実現するため/私は願う、この光栄ある陝北高原で/十の、いや何十回もの/戦い
の春を迎えることを!」労働の日々のなかでつきつめた答えがこれであった。 このとき/ただこのとき/わたしははじめて答案を書きはじめたのだ/「革命的青年の理想とは何か」という厳粛な試験問題の…… 延安で生涯を送る。辺境を社会主義の農村に改造するためにがんばる──これが「私」のつきつめたところであった。こう決心した時はじめて、私は<理想>を見いだした。その実現にむかってすすむべき理想を見いだしたのであった。
第三章は、そのように決心した「私」にみえてくる目に見えない階級闘争の描写からはじまる。知識青年を腐食させようと、実にさまざまな動きがおこる。北京
の青年がこんなへんぴな田舎へ来て百姓をするなんて、可哀そうにといって近付いてくる者がいる。これは「形を変えた労働改造ではないか」という者もいる。
「知識人は頭脳労働をすべきだ」などというものもいる。醜い個人主義──というふうにそれらの発言は「私」によってとらえられている──が、<人生>・
<青春>・<前途>・<理想>などのことばで装われて投げ出されもする。国内だけではない。ソ連からも「中国の青年には理想がない」などという声も聞こえ
て来る。だが「私」はいう。 お前たち搾取階級の梯子が/どうして/われわれの心の窓にとどくだろう? お前たち帝国主義の物指で/どうして/われわれの心境、度量をはかれよう? では、「私」の理想はなにか。それは「貴い青春は人民のものだ/誓って青春を人民にささげる」と書き、「生をすて死を忘れ/羊の群を救った」張勇のように[5]、「生きているかぎりけんめいにがんばり、一生を毛主席にささげる」と書き、人を救うために自分を犠牲にした金訓華のようにいきることである[6]。生涯を革命のためにささげることである。だがそれだけではない。若い世代がすべて金訓華、張勇になることである。そして、それは単に夢想ではなく、いま、現に、全国各地でそのような無数の金訓華、数しれない張勇たちが戦っており、成長しているのだ。 われわれは宣戦した/旧世界に!/帝国主義・修正主義・反動派に!/われわれは突破しなければならぬ/ブルジョア権利の思想の網を/われわれはぶちこわさねばならぬ/旧い伝統観念の堅い垣根を、(中略) われわれはぶ厚い肩に/革命の重い荷をかつぐ/われわれは固いたこのできた双手に/先輩の刀と銃を受けとった/党よ!/われわれの隊伍を検閲せよ!/何百万/何千万の!/ああ、まるまる一代の/志気もあり抱負もある中国青年の/前途は限りない。(中略) われわれには/マルクス・レーニン主義という/天を開く巨大な斧がある/われわれには/毛沢東思想という/路を指す陽光がある! 進め、進め!/「希望は/君たちに托されている」(毛沢東の言葉)/おお!/われわれに/托されている!/進もう、前進しよう!/暴風をついて/火の光にむかって/雷鳴をつき/激浪をおかして/共産主義の/まっかな/太陽にむかって! 詩はこのように、労働のなかできたえられた、共産主義の自覚をもった青年たちが、マルクス・レーニン主義・毛沢東思想という武器を手に、共産主義建設にむかって前進するというイメージで終わるのである。 2
さきにも少しふれたように、『理想の歌』は、72年5月北京大学中文系に入学した「工農兵学員」(「労働者農民、兵士出身の学生」の意。2年以上の実践の
経験をもつ労働者、農民、兵士の中から大衆の推薦によって選ばれた)の集団創作になるものであり、高紅十はその執筆者の一人(だが中心的な一人)であっ
た。その高紅十が後に発表した手記や[7]、この詩について紹介した『光明日報』の記事[8]によれば、『理想の歌』が集団執筆された経過は次のようであった。
1973年、北京大学中文系文学専攻の学生たちに、「先進的な知識青年と英雄人物を書く」という「任務」が与えられた。高紅十をふくむ執筆グループが結成
され、グループはこの年の夏休みを返上して、まず第一稿を書きあげた。73年暮れから74年初めにかけて、中文系の学生は「開門弁学」を行う。
開門弁学とは「門を閉ざして勉学に没頭する」意の「閉門勉学」に対してできた語で、学生が農村や工場などに行き、自分達の専門と関係させながら実際の知識
を学んだり、実践したりする、あるいは、広く大学外の人びと(現場で生産活動に従事している農民や労働者であることが多い)を招いて、その人々に教壇に
立ってもらう──要するに,形式はさまざまであるが、社会と結びついた勉学を行うことである。
このときの北京大学の学生たちの開門弁学の目的は、先進的な知識青年と英雄的人物たちの事績を取材することであった。彼らは全国各地に出かけ、各地に住み
ついた知識青年たちと共に働き、青年の理想についてともに語りあった。彼らが取材した知識青年には、雲南の朱克家、山西省平陸県に定住した天津の知識青年
グループ、河北省の程有志などがいた。いずれも知識青年の模範として、当時広く報道され、よく知られている人々であった[9]。余談だが、このときの成果は『広びろとした道』と題する書物となって74年に人民文学出版社から出版されている[10]。 「祖
国の各地の上山下郷知識青年とともに感想を語り、貧農下層中農から再教育を受けたその体得を交流しあうなかで、私たちの間の共通の言葉はまるでセキを切っ
たようにほとばしり出、革命の理想の赤い糸で、私たちはしっかりと結ばれました。偉大で勇壮な知識青年の上山下郷運動によって私たちは教育もされ、創作の
意欲をはげしくかきたてられもしました。数しれぬ先進的知識青年の典型から私たちは主題を練りあげ、『理想の歌』を世に問いました」 そのときのことを高紅十はこのように回想している。つまり「このような沸きたつような生活のなかで、彼らは戦闘の詩篇──『理想の歌』をはぐくみ育てたのであった[11]。」
だが、こうして書かれ出版された詩も、74年9月当時は、それほど評判になったわけでも、広範に愛誦されたわけでもなかった。例えば、74年9月から75
年11月までに『人民日報』と『光明日報』で書評の対象とされた詩集が、『人民日報』3冊、『光明日報』9冊(いずれも重複は除く)あるが、『理想の歌』
はそのいずれにも入っていない。
ところが、75年12月になって、この詩の朗読が全国にラジオを通じて放送され、その結果、爆発的な売れゆきを示すようになった。さきに示した『光明日
報』の記事には、詩集を買いたくても売り切れていて買えない各地の人たちから、詩集を求める手紙が北京大学に殺到したこと、「本を買いたいと言う人は非常
に多く、学員たちは手元に残しておいた本をすっかり送ってしまい、そのうえまた印刷したが、それもすぐに送りつくしてしまった」ことなどを紹介している。 12月13日『光明日報』が書評を掲載、「『理想の歌』は革命の激情に満ちたすばらしい詩である」と高く評価した[12]。
26日には、やはり『光明日報』に詩壇の長老、臧克家が、このようなすばらしい作品には散文で意見を述べることはできないとして『「理想の歌」讃歌』と題
する詩を寄せ、「詩の一行一行から/あふれんばかりの熱情がきこえる/春潮にさわぐ浪のような/きこえるのだ、何千何万という力強い手が/プロレタリア階
級と言うピアノのキーをたたき/革命の強音をかなでるのが──/千軍万馬、狂風暴雨のような!/どの詩行にも/わたしは見る、毛沢東思想の/億万の化身を
/どの詩行からも/わたしにはみえる、「八時、九時」(毛沢東の「きみたち青年は、午前八時、九時の太陽のように生気はつらつとしている」という言葉をふ
まえている)の/うるわしい春が!」と絶賛した[13]。 そして、あたかもこのような称賛のしめくくりでもあるかのように、翌年1月、『人民日報』は1ページ余を費やしてこの詩を全篇掲載したのであった[14]。
3 『理想の歌』が、その公刊後1年もたってから、ほとんど唐突とも思えるようなかたちでマスコミの注目を浴び、宣伝されるに至ったのは、たとえば『光明日報』の書評や臧克家たちのいうように、ほんとうにこの詩がすばらしかったからだろうか。
一篇の詩として、虚心にこの詩とむかいあうとき、私たちが感じるのは一種の失望であろう。詩の定義づけをめぐって議論をする気はないが、言語というものを
離れては詩も詩人もないという一点だけは、すべての定義の前提であろうし、たとえそれが露わであろうと背後に隠されていようと、詩は<ことば>との詩人の
闘いの結果として成立するというのが,私たちの常識であろう。そして、それはまた中国の歴代の詩人たちの暗黙の前提でもあったように思う。そのような認識
からすれば、この詩は、詩として、少なくとも成功した詩として成立しているとはいいがたいのである。
なるほど、ここには語彙の選択や配列にある種の工夫や計算も認められる。私は、中国の詩は視覚のイメージより、むしろ音声による快感を重視する(従って詩
人は「読者」よりも「聞き手」を予想している)と考える者だが、この詩はゆるやかにもせよ各節に韻をふむほかに、例えば冒頭の数行、 紅白、 白雪、 藍天…… 乗東風 飛来報春的群雁。 に
みられるように、「紅」「白」「藍」という色彩の対比や、雁の群れが飛来するさまを象徴するような文字の配置などによって、読者の視覚的イメージをも喚起
しようという努力が──しかし、それも余りにも単純なものにすぎないが──なされている。しかし、この工夫にしても、全詩を通じて貫徹されているわけでは
なく,単に詩を視覚的な平凡さから救い、散文と区別するために行を分けているにすぎないような場合が大部分である。例えば、詩中 但是、 理想的航道 並不是那麼寧静、担蕩、 豊饒的山区 也不都長着核桃・海棠。 (「理想の航路は/それほど安静でもひろびろと平坦でもない。/豊饒な山間地帯も/くるみや海棠が育つとは限らない」) と行分けされている個所に、そうしなければならないどんな詩的必然性があるというのだろうか。行と行の間にはイメージや思想の、飛躍や質的な転換があるわけではない。句と句をつないでいるのは、詩の論理ではなく、散文の論理にほかならないのである。
『理想の歌』は、このように、あげつらっていけば欠点だらけのように見える。詩としては一つの失敗作にほかならない。作品が、それが公刊された1974年
以後しばらく格別の注意をひいたわけでもないのは、むしろ当然であった。では、なぜ『理想の歌』がこれほどまでに賞賛をあびるようになったのであろうか。
この疑問に対しては、直ちに、1975年12月の中国の政治情勢という客観的条件を理由としてあげることができる。 4
香港の中国大陸研究者・司馬長風は、プロレタリア文化大革命を追跡し、分析した彼の著書で、九全大会(69年4月)を、文革の退潮期=実力派軍人が実験を
握って<文革派>の追い落としを開始した時期とし、それから十全大会(73年8月)までを周恩来総理が権力を掌握する過程、十全大会以後(73年8月—
75年11月)を、周恩来、鄧小平らの<実権派>に対し、文革派が反撃する過程というふうに位置づけている[15]。このような位置づけには異論があるかもしれないが、しかし、十全大会以後、75年末までの時期が<文革派>と<実権派>との権力をめぐる激しい格闘期であったことに異論をとなえる者は、いまや、いないであろう。
しかし、この権力闘争は誰の目にもはっきりと、それとわかる形で闘われたのではなかった。80年末の「四人組」裁判でその一端が明らかにされたように、最
高指導層内部の陰湿な闘争がその形態であり、中国人民をふくめた<外部>に対しては、党内は団結しているというポーズがとられ続けたのである。この時期の
中国の政治過程は、批林批孔運動→プロレタリア独裁理論学習運動→『水滸伝』批判運動といったふうに、現象的には、一種のマルクス主義教育=学習運動の連
続的展開という形で進行したが、それらはいずれも目標の極めてあいまいな、わかりにくいキャンペーンであった。その理由も、運動の発動者である<文革派>
が、公然と<実権派>批判という目標をかかげるわけにはいかなかった点にあるだろうと私は思う[16]。 さて、その<文革派>対<実権派>の闘争が誰の眼にもわかるようになったのが、75年11月にはじまった「教育界の奇談怪論批判」からである。
プロ革命の非常に大きな構成要素に、教育革命がある。この教育革命は、文革前17年間の教育を、労農兵から遊離し、生産と労働の実践から遊離した<智育第
一><点数第一>の教育で、労農兵から遊離した、名利のみを追う精神貴族を養成し、<三大差別>(労働者と農民、都市と農村、頭脳労働と肉体労働の三つの
差別、格差)の縮小ではなく拡大に奉仕する修正主義の教育だと批判し、それにかわる真に革命的な新しい教育路線を打ち樹てようとするものであった。その主
な内容は、①学生選抜方法の改革(=実践の経験をもつ労農兵のなかから大学生を選ぶ)を根幹とし、②教育方法の改革(=大学の中だけでなく、広く社会的実
践のなかで教育し、プロレタリア階級の革命事業の後継者に育てる)、③養成目標の改革(=(智育第一)ではなく、プロレタリア階級の思想を身につけ、理論
と実践を統一でき、問題を分析し解決する能力をもつ学生を養成する)、④学校運営の改革(=労働者階級が学校を指導する)の四点に要約できる。
プロ文革の過程で、教育界ではこの内容を現実化する措置が次々ととられていった。しかし、実際の教育現場ではこの教育の<革命>に対し大きな不満がうずま
いていたらしい。こうした不満を代弁するような形で、75年夏(「7、8月の間」という)清華大学党委員会副書記の劉冰が毛主席に手紙を書き「現在の大学
制度は、学制が短かすぎ(文革前の3—5年が、文革中は2—3年に短縮されていた) 教育の質も低く、学生のレベルも高くない。これでは工業の発展の必要
に応えられないから文革前の制度を回復してほしい」旨を要求、時の教育部長、周栄鑫もそれに支持を与えた。ところが、これはプロ革命の成果を否定するに等しい要求であったため、毛主席は怒って、この手紙を劉冰に送り返し、清華大学の学生たちに劉冰と周栄鑫を批判するようよびかけた。
こうして、75年11月から劉冰、周栄鑫批判がはじまった。学生たち──というより彼らをリードする<文革派>は、劉・周の意見を「奇談怪論」ととらえ、
11月3日から清華大学構内にのみ大学報を貼り出すという非公開の形で批判を開始した。これが「教育界の奇談怪論批判」のはじまりである。
劉・周らの意見の重点は、現行の制度下では学生の質を保証しがたい、という点にあった。従って<文革派>がそれを批判するには、労農兵の学生は、文革前の
学生よりも学問的にもすぐれ、思想的にもはるかにプロレタリア的であるということを具体的に示す必要があった。詳細はわからないが、<文革派>による最初
の批判は「劉・周らはなんと毛主席に反対した!」というふうな内容のない感情的なものが多かったようである。しかし、12月に入ると運動は「教育革命大弁
論」と名を変え、具体的な例をあげての反論がはじまった。その最初の重要な論文が『紅旗』12月号に掲載された『教育革命の方向は改纂してはならない』で
あった[17]。
論文は「教育の質」を論じて、「旧北京大学や清華大学が養成したのは、個人の名利を追求し、理論が実際から遊離した学生たちだった。彼らは哲学を学んでも
哲学はできず、文学を学んだ者は小説が書けなかった。工科の学生は、機械も動かせず、修理もできなかった。苦しみを恐れ、死を恐れ、党と国家の命じる勤務
先に行かず、堕落してブルジョア右派になった者もいる」と旧い大学生の<質>を批判したのち、「しかし、現在の労農兵の学生は、数年間の学習を経て、マル
クス主義の理論水準と、階級闘争、路線闘争の自覚は大いに高まり、専門の学習でも喜ぶべき成果をあげている」と、労農兵学員が優れていることを力説した。
そして、その実例として、「世界の先進的水準」の発明創造をした人々とともに、「革命の激情にあふれた長詩『理想の歌』を書いた」「北京大学中文系学員」
をあげたのである。
『理想の歌』が全国放送されたのは、おそらくこの前後であろう。そして12月4日、『人民日報』にこの論文が転載されたのを皮切りに、『理想の歌』と高紅
十は一躍マスコミの寵児になっていく。その間の経過を年表ふうに記していくと次のようになる。12月8日『人民日報』「北京大学の様相に深刻な変化生ず」
と題するルポを一面トップに掲載、その中ではじめて高紅十を紹介[18]。11日、高紅十の写真を付した。『理想の歌』とその作者たちを紹介する記事が『光明日報』に載る[19]。15日『光明日報』に『理想の歌』の書評を掲載[20]。76年1月7日『光明日報』毛主席の詞発表を祝う詩人たちの文章を掲載。黄声笑、殷光蘭、時永福らの既成詩人と並んで、「在延安插隊落戸(生産隊に住み込む)的北大卒業生」高紅十の文章が載る[21]。1月25日『人民日報』「労農兵学生の“質が低い”といった奇談怪論に反駁する」ため『理想の歌』を全文掲載[22]。2月5日『光明日報』に高紅十の「延安に帰り農民となる」という文章が載る[23]。
一方、「教育革命大弁論」の方は、翌年1月、周恩来総理の逝去とともに一時停止されたが、葬儀の終わりとともに再び開始され、いっそうエスカレートして
「右からのまき返しに反撃する」運動となり、2月には、明らかに鄧小平をさす「悔い改めようとしない党内走資派」の批判運動にと発展していった。そして四
月、天安門事件をきっかけに鄧小平はついに失脚に追い込まれる。
以上の経過からもわかるように、75年11月から76年4月に至る政治劇の進行過程は、明らかに<文革派>と<実権派>との闘争のなかで<実権派>がじり
じりと後退し、ついに敗北していく過程である。それは同時に、『理想の歌』とその作者がマスコミにとりあげられ有名になっていく過程でもある。『理想の
歌』が、1975年暮れに突然のように賞賛をあびはじめたのは、この政治闘争における<文革派>の必要を満たすものを、この作品がそなえていたからだとい
うことは、もはや明らかであろう。
『理想の歌』が突然注目されるようになった理由は以上のようだとしても、しかし、依然としていくつかの疑問が残る。ひとつは、政治闘争の必要にもとづいて
<文革派>が『理想の歌』をもてはやしたのは事実だけれども、だが、そうしたキャンペーンぐらいで詩集がそんなに売れるものなのか──つまり、『理想の
歌』が読まれたのは、そんな外在的な理由からだけなのかどうか、ということである。もうひとつは、『理想の歌』の集団執筆者のうち、他の執筆者はまったく
無名のままなのに、なぜ高紅十だけが特にとりあげられ、マスコミの寵児になったのか、ということである。以下、そうした問題について考えてみることにしよ
う。 5 第一の疑問については、次のように考えることができる。
プロレタリア文化大革命のなかで、中国の都市在住の青年たちは、それまでの青年たちとまったく異なる青年期を過ごすこととなった。知識青年の<上山下郷>
運動とよばれる、都市の知識青年の農山村への定住運動が定着したため、彼らの三分の一以上が農村にいかねばならなくなったためである。
都市の学校を卒業した若者が、辺境の荒野に移住し、開発に従事するということは、解放後かなりはやくからはじまっていた。農村への定住も57年の農村の社
会主義化=集団化完成後からはじまっていた。しかし、中学・高校を出た青年が農村に行くことが制度化されたのは、文革以後のことである。この制度によれ
ば、中学、高校の卒業生は、条件に応じて、農村、辺境、鉱工業企業、基層組織の四つのいずれかに「分配」(学生を組織的に勤務先に配属すること)されるこ
とになっていた。農村に赴く者は、だいたい卒業生全体の30〜40%で、一人っ子、長男、長女、病弱者、華僑の子
女、一家の中で兄弟姉妹の誰かがすでに農村にいる者などは都市に残ることができるという規定であった。そして、そこで何年間か労働し──そしてより重要な
ことだが、その労働を通じて自分の思想をきたえたのち、それぞれの条件に応じて、大学、研究機関、行政機関などにその人々を入れていくという計画であっ
た。この規定は、67年の卒業生から適用されはじめたが、68年、69年の卒業生は全員一律農村に下放させるという方針がとられた。(この“極左的方針”
は、68年12月21日、毛主席の「知識青年は農村へ行こう」という呼びかけが発せられたことと関係があるだろう)。71年卒業生の分配のときからはもと
の規定によって下放が行われた[24]。こうしてプロ文革開始(66年)以来、75年末までに、約1200万人にのぼる都市の知識青年が、全国各地の農山村に散り、そこに住みつくようになったのである[25]。
この1200万人は経歴も出身も違い、ものの考え方も異なる。種々雑多な若者たちであるが、そのいずれもが、解放後の社会主義教育の申し子であり、プロ文
革中の紅衛兵と<上山下郷>という稀有の体験を共通にもつという点で、それ以前の年代の人々とも、同世代のそうした経験をもたぬ人々とも区別されるような
共通性をもつ若者集団であった。この集団が前世代とも同世代の他の若者とも決定的に異なるのは、彼らが都市の安楽的生活(それには都市の生活環境の安楽さ
という意味も、両親や教師の庇護のもとに生活するという意味もともに含まれる)から、苛烈な農村の生活(それには農村の生活環境、労働の過酷さ、一人で独
立して生活しなければならなくなるといったことがすべて含まれる)へという、激しい変化を、ようやく世界観を形成すべき時期に等しく体験しなければならな
いという点にある。そうした体験をもとに、この若者集団の間に一種の<共生感>が芽生えたとしても不思議ではない。 1970年代初期の中国にあって、体験と感情を共有しあう、1200万人の年齢も接近した若者集団──これをいま仮に<上山下郷青年集団>と名づけるならば、『理想の歌』は、なによりもまずこの集団の文学・<上山下郷青年集団>の自己確認の文学であった。
さきにみたように『理想の歌』は、中華人民共和国の歴史とオーバーラップさせつつ、自己の成長史を語る第一章からはじまる。そこに歌われる「私」は、この
1200万人の青年集団にほかならず、第一章は、この集団の「自分がなに者であるかを対象化しようとする」ことがその創作モチーフである。第二章は<上山
下郷>の意味を明らかにする章である。自分たちの青春は、共産主義を実現するため、三大差別の縮小のため、安逸なる都市から苦しみ多い農村に移り、そこの
改造のためにささげられる。<上山下郷>は、いわば共産主義の<未来>のために、この<現在>を犠牲にする崇高な歴史的使命だということを明らかにするの
がこの章である。第三章は、自分達をその歴史的使命を実現する世代と規定し、それを確認し、外に宣言する章である。(詩に対するこのような理解が、私がこ
の詩を<自己確認の文学>とよぶ理由である)──<上山下郷>へのこのような位置づけと自分達の青春へのそのような意味づけこそ、ほとんど否応なく農山村
に定住しなければならなかった1200万人が、なによりも欲したことではなかったろうか。
<上山下郷>をテーマにした小説や詩やルポタージュ(こうしたものを、私は<上山下郷文学>と名付け、文革期文学の重要な内容を構成するものと考える。こ
の問題については別稿を準備中であり、詳細はそれに譲りたい)は少なくない。しかし、『理想の歌』のようにその意味づけを明確にしえた作品はなかったので
はないだろうか。それは文字通り知識青年たちの心のうちを代弁し、それゆえに彼らの心を激しくゆさぶることができたのである。(余談ながら私は、この詩
が、あたかも人生論のごとく読まれたに違いないと考えている)。『理想の歌』が、そのさまざまな欠点にもかかわらず、広範な読者を獲得した最大の理由はそ
の点にあった。 6 第二の疑問については、高紅十が大学卒業後ふたたび農村に入っていったということに、その答えを見い出すことができる。 話はやや迂遠になるけれども、ここで、めんどうな統計数字におつきあい願いたい。『中国百科年鑑(1980年版)』[26]に
よれば、1976年度における中国の各種の学校における在学生は、小学校(五年制)1億5000万人、初級中学(三年制)4350万人、高級中学(二年
制)1483万人であった。いまこれを在学年数で割ると、学年当りのだいたいの在学生数が得られる。それによると、小学生は各学年平均3000万人。初級
中学1450万人、高級中学740万人という計算になる。つまり、初級中学に進学するのは小学卒業生の約半数弱、高級中学に進学できるのはその更に半数、
74年度における全国学齢児童の就学率は平均93%であるから、非常に乱暴な計算だが、高校進学者は、同世代の子
の約四分の一、25%足らずということになる。これが「中小都市と多くの農村には、すでに初級中学が普及し、大都市には高級中学が基本的に普及している」
といわれた75年当時の状況であった。ところで、76年における高級中学卒業生は実数で517万2000人、この年全国の大学が募集した学生は21万
7000人であった。この年の大学進学者は二年前の高級中学卒業生であるから、進学率は単純には求められないが、多くても全高卒者の3〜4%、同世代の青
年の1%にも満たない数である。
以上は極めておおざっぱな数字にすぎないが、中国の大学生というものがどれほど稀少な存在かをうかがうに足るであろう。その大学の卒業生──しかも天下に
冠たる北京大学の卒業生が、農村に行って農民になるなどということは、常識的な価値判断からすればほとんど狂気の沙汰にもひとしいことであったはずである
(中国で農村や農民に対する蔑視感は我々の想像よりずっと強いことは、注意しておいていい)。そして、高紅十はこの狂気の<反価値的行動>を敢行した英雄
だったのである。マスコミが注目したとしても当然であった。 だが、『人民日報』や『光明日報』が高紅十のことをこぞってとりあげたのは、たんに彼女の行動の特異性にジャーナリスティックに注目したからではなかった。そうではなくて、彼女のそのような行動と、それに駆りたてた思想のもつ規範性に注目したからであった。
労農兵の学生は「作風の面で刻苦、質素であり、自覚的にブルジョア思想の侵蝕を拒み、ブルジョア階級の権利の観念をたえずうち破り,労農の中から来て労農
を忘れない」という特色をもつが、高紅十はまさしくそのような学生であり、卒業にさいし「三度にわたって申請書を書き、延安地区に帰って農民になることを
断固要求し、三大差別縮小の促進派になろうと誓った。これは、旧大学の養成した学生が名利を追い、精神貴族の宝塔にのぼろうとしたのと、きわだった対比を
なしている」と『人民日報』は伝え[27]、
『光明日報』は、「今年いらい彼女はプロレタリア独裁の理論を学び、実際と結びつけて修正主義を批判し、(農村や農民を軽視する)伝統的観念と自覚的に、
徹底的に決裂し、三大差別縮小の促進派となり、プロレタリア独裁を強固にし、社会主義の新しい農村を建設するために青春をささげている」と報じた[28]。
この高い調子の記事は、そのまま当時の知識青年をめぐる、一種ヒロイックな熱っぽい雰囲気を伝えて余すところがない。労働者と農民、都市と農村、頭脳労働
と肉体労働の差別、いわゆる三大差別の解消は、もちろん共産主義社会の実現をまってはじめて可能な大理想である。それには生産力の飛躍的な発展と、高い政
治的自覚をもち、全面的に発展した新しい共産主義的人間の存在が必要である。<上山下郷>はこの大理想実現を射程におき、差別を一歩一歩縮小していくこと
を目指す現実的な措置なのであった。都市と農村の間の気も遠くなるような経済上、文化上の格差、大学生の稀少性にその一斑のうかがえるような、頭脳労働と
肉体労働の差別──そうしたものの解消は、たとえ一人の大学卒業生が農民になったところでなにほどの効果をあげうるものでもない。しかし、一人の大学生の
ヒロイックな行動が、何千万もの知識青年のヒロイズムを激発させることができたとしたら、その行為のはらむ効果にははかりしれないものがあるだろう。
高紅十は、知識青年の<上山下郷>を讃美した『理想の歌』と、同じテーマの小歌劇『朝陽路上』(未見)の作者である。その彼女が「『理想の歌』は紙の上に
書くだけではだめだし、『朝陽路上』は舞台の上で上演するだけではだめなのです。もっと重要なことは、自分の行動の上に貫徹実行することです」と述べ[29]、自らの語った理想を実現すべく陝北の黄土地帯に入っていったのである。「奇談怪論」を突破口に<実権派>攻撃を狙っていた<文革派>が、労農兵学生の模範として彼女をとらえようとするのは当然のことであろう。
この時期、中国のマスコミは<文革派>の政策の宣伝の道具であることに徹していた(姚文元のコントロール下におかれていたという)。高紅十をとりあげたの
は、決して、個別のジャーナリストの眼や感覚ではなく、彼女のなかに規範性を見い出した、計算し尽くされた政治の意志にほかならなかった。 7 これまで、1975年の政治状況の中での『理想の歌』と高紅十の位置をみてきた。だが、高紅十その人について、私はまだほとんどふれていない。次は彼女について語るべき段取りである。 高紅十には、自分のことを書いた二篇の文章がある[30]。
内容はほとんど同じで、二篇ともそう長いものでもない。1200万の<上山下郷>知識青年の中には、高紅十以外にも、自分の体験を書き綴った文章を発表し
た人も少なくはない。知識青年を<上山下郷>に動員するため、また、彼らに努力目標を与えるために、模範的な知識青年の手記を集めた小冊子が数多く出版さ
れたからである[31]。
それらの文章は、農山村が自分達の努力でどのように変化していったか、その中で自分達の思想がどのように変わっていったかを綴るものが大部分である。高紅
十の手記もそうしたパターンをはみ出すものではないけれども、大学を卒業してから農村へ行く決意をするまでの内心の葛藤がやや具体的に書かれる点で、他の
手記とは異なっている。いま、そこに焦点をあてながら、高紅十について述べてみたい。
高紅十は1952年に生まれ、北京の初級中学を卒業後、69年1月、延安に插隊落戸した。69年1月といえば、前年末に「知識青年は農村に行こう」という
毛沢東主席の号令が発せられたばかりであり、知識青年たちの都市から農村への大移動が開始された時期である。前にもふれたように、68年、69年の初級・
高級中学卒業生は選択の余地なくすべて農村にいかなければならなかった。高紅十の農村行がどの程度主体的なものであったかうかがうすべはない。 3年あまりの農村生活を、高紅十はかなり模範的に過したと思われる。その一端を私たちは『理想の歌』や『成長』(後出)など、彼女の作品から知ることができるが、要するに世間知らずの町の娘から階級的自覚をもった農民へと生長していったようだ。
72年5月、彼女は延安から推薦されて北京大学に入学、中文系(中国文学部)文学専攻の学生として勉強をすることになった。入学したばかりの北京大学は、
文革で批判されたはずの試験制度、つめこみ式教育などが行われており、その影響で思想感情が変わった、と彼女は書いている。こうしたなかで、彼女は最初の
作品『成長』を書く。それは下放した知識青年が貧農下層中農の教育で成長していくという内容だったらしい。この処女作は中文系の雑誌『習作』に掲載され激
賞された。三ヶ月後、彼女は大学に行けなかった青年が心の悩みを乗りこえることを描いた小説『路』を発表した。それは芸術的技巧をこらした作品で大学では
前作以上の高い評価を受けた。ところが、この作品は延安に残っている知識青年や農民たちからはひどく反発され、不評であった。それは自分の思想が知識青年
や農民たちから離れはじめたことを示すものだったが、自分はそうは思わず、彼らには文学がわからないのだと考えて自分を慰めていた、と彼女は回想してい
る。この年の秋、北京郊外に開門辦学に出かけた彼女たちは、ブルジョア文人風の作品ばかり書いていた。 こういう彼女が変化していく転機が少なくとも三回あった。
最初は73年初めで、この時期、北京大学では「右傾思想批判の大討論」が始まり、この討論の中で彼女は自覚を高め、自分の文芸思想はおかしい、それは「文
芸は労農兵に奉仕する」という毛主席の文芸路線が自分の頭の中に根づいていなかったからだと考えるようになるのである。『理想の歌』が執筆されるのは、こ
の年の夏からである。
二回目は74年の開門弁学のときである。彼女たちは、プロ文革中の労働者の生活を描いた短編小説を書くという任務をもって、北京西郊の門頭溝炭鉱に行き、
そこで労働者とともに働き、彼らと「批林批孔」をやり、彼らから階級教育を受ける。この開門辦学を通じて彼女は、自分は世界観を徹底的に改造し、労農兵と
結びつく道を永遠に歩まねばならないということをはっきりと自覚する。同時に、かつて『路』がうまく書けなかったのは、自分が農村に住みついて革命をやる
という思想を堅持していなかったからだということにも気づくのである。
第三の転機は卒業創作のときである。72年5月に入学した学生たちは、約三年半の学習を終え、75年10月に卒業することになっていた。文学専攻の学生た
ちは、労農兵の学生が入学してから卒業するまでの全過程を描いた短編小説を出すことになり、執筆を分担したが、たまたま彼女にあたったのが「卒業」の部分
であった。ここで彼女は非常に苦しむことになる。筆がなかなか進まないのである。 「一番むづかしいのは、小説中の主要な英雄人物──つまり、卒業して郷里に帰り、農業をやる大学生の思想境界(を描くこと)だった。私はその気持ちを自分のものにできず、(従ってまた)うまく表現するすべもなかった」
小説は、労農兵の大学生が卒業後ふたたび農村に帰るという筋であった。それは彼女自身が考えたものか、他から与えられたものかは別にして、多分それ以外に
は考えられない筋書きであった。労農兵の大学生を描く以上、主人公は卒業後必らず農村に行き農民にならねばならない──それが、時代と政治の要請であった
から。その筆がなかなかすすまないのは、彼女自身に悩みがあったからだったろうか。
こうしたとき彼女の「入党紹介者」(中国共産党に入党するさいの紹介者。ただこのとき彼女がすでに入党していたかどうかはわからない。彼女に相当大きな影
響力を行使しうる人物であることに違いはない)が訪ねてきて彼女と話しあい、「鍵は君自身にある。君自身が思想的にスッキリしたら、小説は書けるようにな
る」という。それを聞いて彼女は激しい内心の葛藤に襲われる。「革命的な文章を書こうと思えば、まず革命的人間になれ」それはわかる。彼女は自問する「農
業従事の申請をする報告を書こうか書くまいか。書くとすれば、なぜ。書かないとすれば、何を恐れて?」
『理想の歌』の作者の、このような苦悩は私たちを驚かせるだろうか。もし彼女が兵士の作品を書かねばならなかったとしたら、彼女の作品のテーマが教師にな
ることだとしたら、彼女は兵士や教師になろうかどうかと悩んだだろうか。その場合、彼女はそれほど悩みはしなかっただろう。人は医者を描いた作品を書くた
めに医者にならねばならないことはなく、農民にならねば農民が書けないということもない。だが、彼女も「入党紹介者」もそのようには考えなかった。革命的
な文章=労農兵大学生が卒業して農民になるという作品を書くには、まず革命的人間になれ=大学生である自分が卒業して農民にならねばならない、と考えたの
である。 「(自
分が農村に行く申請を)書かないのは、苦しみをおそれ、疲れをおそれ、農村に生涯暮らすことをおそれているからに違いない。革命の先輩が全国を解放するた
め流血の犠牲をおそれなかったのに、われわれ后代が平和な時期に農村に入るのを、なおグズグズとためらっている。これは根本を忘れたのでなくてなんだろ
う?若者がただ個人の利益だけを考えていたら、中国革命はどうして継続できるだろう。共産主義がいつ実現するだろう」 高紅十はこのように、悲しいほど純粋に自分を追いつめていく(高紅十のこうした論理のうちに農村に行った若者たちが、自己の置かれた特殊な状況によって形成せざるを得なかった<上山下郷の思想>の核を読みとるのは決して見当はずれではあるまい)。
こうして彼女は延安に帰り、農民になる決心をする。しかし、この決心は「最も科学的な世界観」たる「マルクス・レーニン主義と毛沢東思想」によって基礎づ
けられたものでなければならない、と彼女は考える。「この瞬間私は、学習したいというかつて経験したことのないほど切迫した気持ちを感じました」と彼女は
述懐している。自己の決心をこうした学習でゆるぎないものとした彼女は、六月七日中国共産党延安地区委員会に手紙を書き、同時に学校に対し,「卒業後は延
安に帰って農民になり、共産主義の新しい人間になりたい」という申請書を正式に提出した。 彼女の卒業創作『成長』[32]の
完成もおそらくその頃のことだったであろう。『成長』というタイトルは、好評を博したという処女作と同名であり、多分、それが下敷きになっているに違いな
い、暁京という娘の物語である。中学を卒業して延安にやってきた娘が、大学を卒業して再び延安に帰ってくるというストーリーのこの小説は、その多くが、延
安の農村でなにも知らない娘が周囲の農民の暖かい励ましで自覚をもった農民に育っていく過程の描写に費やされている。現実の高紅十は思い悩むが、作品の中
には、娘が、大学を卒業してからどうしようと悩む場面などはない。暁京は、卒業したら農業大学をつくろうという明確な目的をもって大学に入り、そして帰っ
てくるのである。
彼女の手記には読むものの心を打つなにものかがあったが、『成長』にはそれがない、と私には感じられる。おそらくそれは、彼女が内心の葛藤をそのまま投げ
出すのでなく、苦しみを経て、それを解決してしまった者の重味を背景にしてこの作品を書いたからであろう。彼女は<説教者>ではないにしても、一種の<啓
蒙者>の立場に無意識のうちに立っており、それがこの作品をありきたりの<上山下郷>小説にしてしまっている。高紅十が、もし自分の悩みを読者とともに悩
むという立場でこの作品を書いたとしたら、あるいは<上山下郷文学>に新しい境地を拓いたかもしれないのだが。 1975年10月28日、北京大学は集会を開いて、高紅十ともう一人卒業後農村に行く学生を激励した。「奇談怪論批判」がはじまったのは、その一週間後のことであった。
一年後の76年10月「四人組」が逮捕された。そのニュースを、彼女は陝北の山奥できいたであろう。そこでも規模は大きくないながら祝賀集会が持たれたに
違いない。ドラが打ち鳴らされ、爆竹の音がにぎやかに黄土高原を流れていったに違いない。そのとき彼女が感じていたものがなんであるか、推測するすべは私
たちにはない。しかし、彼女も耳にしたに違いないドラや爆竹の音は、彼女を主役にした一つの時代の終わりと、彼女の作品を生んだ一つの集団の解体とを告げ
る葬送の曲のようにひびいたと、いま私たちは確言することができる。 おわりに
高紅十たちの世代を想うとき浮かんでくるあるイメージがある。それは、例えば<辺境にむかって駆ける若き戦士の群れ>と<築かれるはずだった「理想」を辺
境に埋めて帰還する沈黙の若者たち>とから構成される1200万の青年の像である。この青年たちは、歴史の先頭を疾走する者の自負と、その歴史から突然は
じき出された者の当惑や憤激や悲哀の感情を共有することでくくられる世代である。
どの世代も自らの歌を持つわけではない。しかし、高紅十の世代は疾走する者の自負を誇らかに歌う『理想の歌』をもった。だが、それは理不尽に歴史から捨て
られた者の当惑や憤激、悲哀をうたう後半部と合わせてはじめて完成するはずの<未完成の悲劇>であった。『理想の歌』のそういう意味での<未完成性>こ
そ、文革期文学とその担い手たちの運命をなによりもよく象徴するものである。 (1981年8月20日)
[2]
吉川幸次郎「中国に使いして」(『吉川幸次郎全集』22巻、筑摩書房)に75年3月の経験として北京大学の教授陣との座談会の模様を記すが、その中に「ま
たむこうがわの出席者には、農村から推薦されて大学に在学する学生二人が含まれ,その一人高紅十嬢は、「理想の歌」集団創作者の一人としての経験を、雄弁
に活発に語った」(442頁)とある。高紅十を紹介したものとしては、これが唯一のものではあるまいか。 [3]
『理想之歌』人民文学出版社、1974年9月刊。なお74年4月に第二版が出ている。第二版では相当な削除と訂正が行われている。削除はページ数にして13頁、約60行に及ぶ。なお小稿での翻訳は第二版に拠った。 [4]
蒋士枚、石湾「喜看群雁報春来──読長詩《理想之歌》」『光明日報』75年12月11日。 [5]
張勇は天津の労働者家庭出身、女性。天津市中学紅衛兵代表大会河西分会常務委員だった。69年4月黒龍江省(今は内蒙古)に挿隊。70年6月、水に落ちた
生産隊の羊を救うために死んだ。19歳だった。その事績は知識青年の模範として新聞等で大きく報道された。 [6]
金訓華は上海市呉淞二中を卒業、上海市中等学校紅衛兵代表大会常務委員であった。69年5月黒龍江省の農村に定住。8月国家の物資を救出するため洪水で死
んだ。彼の事績は、祁学金「革命的青年の手本──金訓華」、謝香雲「訓華は労働者階級のりっぱな後継者」などに詳しい。(いずれも『人民中国』1970年
4月号所収) [7]
高紅十「在毛主席文芸路線指引下放声歌唱」(『光明日報』76年1月7日)および、「回延安当農民」(『光明日報』76年2月5日)。 [8]
「一份来自清華、北大教育革命的報告──一代新人的《理想之歌》」(『光明日報』75年12月11日) [9]
朱克家は69年4月上海海南中学卒業後雲南省シーサンバンナのアイニー族の人民公社に下放。第四期人民代表大会常務委員、第十期候補中央委員。そ
の事績は「農村也是大学──記上海知識青年朱克家在雲南省孟臘県孟侖公社鍛煉成長」(『農村也是大学』上海人民出版社、73年2月刊所収)、「听毛主席的
話在広闊天地里大有作為」(『志在農村──上山下郷知識青年談体会』人民出版社、74年二刊所収)にみえる。程有志は64年河北省張家口市の高級中学卒業
後、涿鹿県温泉屯大隊に定住。科学的農業で増産をもたらした。「科学種田闖新路」(前出『志在農村』所収)、「做社会主義時代的新農民」(『我們需要農
村』農業出版社、74年8月刊所収)など参照。平陸県毛家山の天津知識青年グループ30人は、68年暮れ徒歩で天津を発ち、50日を費やして69年2月毛
家山につき、そこに定住した。その事績は「在農村大学中茁壮成長」(前出『志在農村』所収)、「敢叫毛家山変大塞」(前出『我們需要農村』所収)などにみえる。 [10]
『広闊的路』人民文学出版社、74年11月刊。天津の知識青年グループを扱った「“扎根園”里苹果紅了」、程有志の事績を述べた「広闊天地有志人」、雲南
省の生産建設部隊に入った北京の知識青年・辛温を扱った「和金鶏納一起成長」の三篇の文章が収録されている。 [11]
注(8)に同じ。 [12]
注(4)に同じ。 [13]
臧克家「《理想之歌》賛歌」(『光明日報』75年12月26日「光明」14期) [14]
「理想之歌」『人民日報』76年1月25日の「戦地」5期。なお、この号に掲載された『理想之歌』は人民文学出版社版の原詩に比べると、改行、字句の異同をふくめてごくわずかの改訂がみられる。 [15]
司馬長風『文革後的中共』時報文化出版事業有限公司、77年12月刊。 [16]
この点については私見の一端を現代中国学会1980年全国大会で述べたことがある(「批林批孔運動は虚妄であったか」現代中国学会『現代中国学会─1980』1981年6月刊28〜30頁) [17]
北京大学、清華大学大批判組「教育革命的方向不容纂改」『紅旗』75年12期。 [18]
「北京大学面貌発生深刻変化」(『人民日報』75年12月8日) [19]
注(8)に同じ。 [20]
注(4)に同じ。 [21]
注(7)に同じ。なお黄声笑(1918年生)は、湖北省の長江航運管理局に働く労働者の詩人、殷光蘭(1935年生)は安徽省肥東圏に住む女性の農民民歌
詩人。時永福(1945年生)は解放軍所属の詩人で、黄声笑と殷光蘭は文革前から活躍していた詩人。時永福は文革期に頭角をあらわした詩人である。これら
労農兵を代表する詩人に高紅十を配した編集者の意図は、彼女を労農兵出身の代表として位置づけることにあったと思う。 [22]
注(14)に同じ。 [23]
注(7)に同じ。 [24]
「(大陸来港人士座談会)文革十年来的中国」(『七十年代』77年2月号)、洪芸「中共的知青下放政策」(『七十年代』77年6月号)に拠った。 [25]
「毛主席革命路線的輝煌勝利、文化大革命的豊碩成果、一千二百万知識青年光栄務農」(『人民日報』75年12月23日) [26]
『1980中国百科年鑑』中国大百科全書出版社、1980年8月刊のうち「教育」535〜540頁による。 [27]
注(18)に同じ。 [28]
注(8)に同じ。 [29]
注(18)に同じ。 [30]
注(7)に同じ。 [31]
手許にあるものをあげれば、注(9)に引いたもののほかに、『広闊天地大有作為』内蒙古人民出版社、73年6月、『陽光雨露育新苗』上海人民出版社73年
11月、『一代新人在成長』農業出版社74年2月、『知識青年在延安』陝西人民出版社、「第一集」71年9月、「第二集」72年11月、「在広闊大地里成
長」農業出版社75年9月、『紅色家信』上海人民出版社73年11月、『喜看新苗茁壮成長──《紅色家信》第二集』上海人民出版社76年3月などがある。これらはたまたま書店で購入したものにすぎず、実際に出版されたものはこの何十倍にもなると思う。 [32]
『成長』は、北京大学中文系文学専業72・73級・凌霄『碧緑的秧苗』人民文学出版社76年2月に収録されている。著者の署名はないが、「后記」に「『成
長』の作者は、自分の実際行動でその光りきらめく続編を書くために、……延安地区に帰り、引き続き生産隊に住み込んで農民となり……」とあることから高紅
十の作品であることが知られる。 岩佐昌暲「文革期文学の一面——高紅十の『理想の歌』を中心に——」、神戸大学『未名』1号、1982年 2月
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公開日:03年3月21日