| 初出は、岩佐昌暲「紅衛兵運動の挽歌—郭路生の詩について」(上・下)「未名」13号・14号、1995年3月・1996年3月です。ホームページ掲載にあたり、岩佐により一部加筆、修正がありました。 なお、いくつかの漢字がうまく表示されていません。ご了承ください。 2002年5月7日 管理人 |
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岩 佐 昌 暲 朦朧詩を含むいわゆる新潮詩のことを調べていくと、北島、多々らその中心的な詩人たちが大きな影響を受けたと告白する(1)一人の「地下」(2)詩人に出 会う。それが郭路生である。私も七、八年前に《今天》に関連してこの詩人のことを知り、その作品を翻訳紹介したことがある(3)。そうした機縁で、気には なっていたのだが、その伝記や作品については紹介に書いた以上のことを知ることができないでいた。しかし、近年断片的ではあるが彼について種々の紹介記事 や回想などが現れ始め、いろいろなことが分かってきた(4)。更に在外研究中の九三年、北京で面識を得た林莽から郭路生の詩集『食指 黒大春現代抒情詩合 集』(5)(以下『食指詩集』と記す)をプレゼントされ、その作品を纏まった形で読むことができるようになった。 郭路生は中国現代詩史上重要な位置を占めるべき詩人であるのに、まだしかるべき位置を与えられていない。おそらく、彼の詩を詩史的に評価しようとすれ ば、文革期文学における位置付けと、八〇年代新潮詩の先駆としての位置付けという二つの問題を解決しなければならないのだが、現在の中国では文革期文学も 新潮詩もともに<学>的対象として十分成熟していないからであろう(6)。小稿は、注4、注5の資料に拠りながら、主として〈文革期文学〉の視点から郭路 生と彼の詩の位相を考えてみようとするものである。文革期文学は、わが国でもまだ成熟した研究対象となっているとはいい難い。小稿がその出発点の一つにな ることができれば幸いである。 1 郭路生について 郭路生の伝記は『食指詩集』に簡略な記事とそれを補足する林莽の序文がある。まとまった資料としてはこれが唯一のものである。初めに、この資料を主にしつつ、その他零細な記事も取り入れて、彼の伝記の輪郭を素描しておきたい。 郭路生は本籍山東の人、ペンネームを食指という。一九四八年十一月二一日河北省巣県で生まれた。両親は解放軍とともに行軍中であり、母親は分娩後ただち に彼を抱いて数里を歩き、この地の唯一の病院に辿り着き、そこでようやく臍の緒を切ったのだという。「路生」という名は「路上(行軍途中)に生まれた」と いうところからつけられた。王光明によれば、両親は解放後「父親は中級幹部、母親は小学校長であった」(7)というが、彼と親しい作家・阿城は父親は「一 定の地位のある人物」だと書いている(8)。後で紹介する恋愛や結婚の状況から見ても、おそらく中級幹部より上の(いわゆる十三級以上の)高級幹部だった と思う。 幼時から聡明で勉強好き、五歳の時にはもう文が書けたという。正義感が強く、文革中取り囲まれて殴られている教師を助けようとして迫害されたことがあ る。高校生だった六五年ごろ、張郎郎らの秘密サークルに出入りし、年長の文学青年たちと親交があった。張は中央美術学院院長だった画家・張?の息子。文革 前「太陽縱隊」という文学サークルを作り、それが反動組織とされて逮捕され、十年間獄中にあった。文革後「中国美術報」、香港企業の北京駐在事務所などで 働き、八九年天安門事件後国外に出て、今はアメリカに住む。六五年ごろ張郎郎は牟敦白という人物の家で開かれていた秘密の集まり[中国語では<沙龍>。以 下サロンと書く。]の常連だった。このサロンには甘恢理[文革期に密かに流行した小説「当芙蓉花重新開放的時候」の作者。経歴など不詳]などが出入りして おり、後には郭路生も参加するようになった。張郎郎はここで郭路生と知り合った。張郎郎によれば、このサロンで彼らは「秘密の詩作遊戯、飲酒。金はなく、 安物の酒だけ。つまみはいつも漬物」という時間を過ごした(9)。こうした経歴が示すように、張郎郎とその仲間たちは当時の中国社会の認めるはずのない、 デカダンな雰囲気を生きた青年たちだったようである。文革前夜の中国社会で年長の文学青年たちと、知られれば身の破滅をもたらすかもしれない危険な「遊 戯」にふけった体験、あるいはそのサロンで学んだことが、郭路生の詩の色彩に大きな影響を与えていることは疑いない。 文革中から詩を書き始めたというが、今見ることのできる最も早いものは六七年の作品である(10)。その「相信未来」は当時の紅衛兵に愛唱され、彼の名 を高めた。一九六八年十二月山西省汾県杏花村に挿隊[中学、高校の卒業生が農山村に入り定住すること]した。七〇年工場に入り労働者となり、七一年には解 放軍に入隊した。これは同世代の青年の中ではかなり恵まれた経歴といってよく、その背後には革命幹部だった両親の影響力が感じられる。軍隊時代に「強烈な 刺激を受け、精神分裂」を病むようになる。精神を病むほどの「強烈な刺激」が何だったかはよく分からないが、楊健によれば、当時郭路生は賽福鼎[サイフジ ン]の娘と悲劇的な恋愛をし、それが発病と関係があるのだという(詳しくは後述)。サイフジンはウイグル族の高級幹部で長く中共新疆ウイグル自治区第一書 記を努め、六八年には新たに成立した自治区革命員会主任、七二年には解放軍新疆軍区政治委員だった。彼はこの病気のため人に侮辱され、馬鹿にされ、背後か ら指差される[中国では人を指差すのは大変な侮辱である]といった屈辱を体験した。「食指」[人差し指]というペンネームはこの体験に由来する。 七三年軍籍を離れ、一時、光電技術研究所で働いた。はっきりした時期が分からないが、結婚・離婚の経験がある。相手は中国共産党の指導者だった李立三の 娘である。李立三は左翼冒険主義と批判された三〇年代の李立三路線の責任者で、解放後は党中央委員、党華北局書記、中央人民政府委員などの要職にあった。 文革開始の際も華北局書記だったが、六七年五月紅衛兵・造反派による抄家[不法家宅捜索]を受け、以後激しい闘争にかけられた。六月造反派に逮捕され、私 設監獄で死んだ。逝去の翌日その夫人李莎と二人の娘も逮捕された。娘たちは釈放されたが李莎は八年間獄中にあった。李立三が正式に名誉回復されたのは八〇 年三月のことである(11)。郭路生が結婚相手としたのはこの二人の内の一人だった。知り合った事情も、結婚や離婚のいきさつも明らかでないが、一つ明ら かなことは郭路生の生活圏がこうした政治的上層社会に属していたことである。 七三年には精神病が悪化して長期入院した。入院中も断続的に詩作は続けていた。多々は七四年に郭路生と知り合ったが、当時彼は「精神崩壊」だったと書い ている(12)。七八年末《今天》が創刊されると、彼の作品が次々に発表され始める(後述)。しかし病気は依然一進一退の状態だったようである。八〇年代 初めのころの郭路生について阿城はこう書いている。 「郭路生は「精神の崩壊」後、安定医院で治療した。彼は安定医院の模範的病人だった。いつも自分でおかしいぞと思うと、十四番のバスで安定医院に行っ た。症状が重いと、暫く入院し、それから十四番に乗って帰った。十四番は徳勝門内大街を通る。郭路生は行き帰りに私の家の前で下車し、入ってきてだべるこ とがあった。だが彼がよくだべりに来たというのは、彼がしょっちゅう精神病の発作を起こすという意味ではない。しょっちゅう来たというに過ぎない。私も阜 城門外の彼の家に行ったことがある。両親と一緒に住んでおり、建物は典型的な五〇年代のソ連式の単元楼だった。そこでぎょうざを食べたことがある。煮えて 皮が破れた、具は大雑把な切り方だったがいっぱい詰まっていた。/冬になると郭路生は「豚の耳」といわれていた帽子を被った。この手の帽子は六〇年代を過 ぎると跡を絶ったが、路生は依然上手にそれを被っていた。ある人達は流行の装いをすると立派にみえる。ある人々は、例えば郭路生がそうだが、装いが流行で あろうがあるまいが、やはり品格がある。路生がノックすると、窓ガラスの向こうに彼が見える。目を上に向け、両手を袖に入れ、静かにドアが開くのを待って いるのは、雪の夜に柴の扉を叩いている古人といった風情があった。」(阿城「昨天今天或今天昨天」) 八〇年代以後の郭路生は、阿城の回想に現れるような、入院や退院を繰り返しながらひっそりと日々を送る精神を病む詩人として生きている。九三年、彼の詩 は俄に脚光を浴び、北海公園近くの文采閣で彼の詩をテーマに討論会が開かれたという(13)。五月には黒大春との共著の形式でではあるが、詩集(前出『食 指 黒大春現代抒情詩合集』)も刊行されている。そして恐らくこうした動きを受けて《中国作家》九三年月三号が彼の詩をまとめて掲載した。詩集収集の作品 によれば九三年現在、彼は北京市の第三福利医院に入院中である。 2 「相信未来」 郭路生の名が最初に知られるようになったのは、その詩「相信未来」が紅衛兵たちによってによって手書きで広まったからである。「相信未来」—「未来を信 じる」という己れ自身の確認とも、「未来を信じよう」という仲間に対する呼び掛けともとれるこの詩の末尾には「一九六八年・北京」と記されている (14)。 相信未来 未来を信じよう 当蜘蛛網無情地査封了我的爐台 蜘蛛の糸が俺の爐台を無情にも封印してしまったとき 当灰燼的余烟嘆息着貧困的悲哀 灰燼からまだ微かに立ちのぼる煙が貧困の悲哀を嘆いているとき 我依然固執地鋪平失望的灰燼 俺は相変わらず失望の灰燼をしつこく平らにならし 用美麗的雪花写下:相信未来 美しい雪片で書き残す— 相信未来、と 当我的紫葡萄化為深秋的露水 紫色の俺の葡萄が更けゆく秋の露と化したとき 当我的鮮花依?在別人的情懐 俺の鮮花が他人の気持ちに寄り添っているとき 我依然固執地用凝霜的枯藤 俺は相変わらず霜の降りた藤の枯れ枝でしつこく 在凄涼的大地上写下:相信未来 凄涼たる大地に書く— 相信未来、と 我要用手指那涌向天辺的排浪 俺は天のかなたに押し寄せるあの波を手で指差そう 我要用手掌那托住太陽的大海 俺は太陽を支えているあの大海原を手で支えよう 揺曳着曙光那枝温暖漂亮的筆杆 明け方の陽光をゆらゆら揺るがせている暖かく美しいあの筆で 用孩子的筆体写下:相信未来 子供の字体できちんと書く— 相信未来、 と 我之所以堅定的相信未来 俺が断固として未来を信じるわけは 是我相信未来人們的眼睛 未来の人々の目を信じるからだ ?有撥開歴史風塵的睫毛 彼女には歴史の風塵を払い除ける睫毛があり ?有看透歳月篇章的瞳孔 歳月の篇章を見通す瞳があるからだ 不管人們対于我們腐爛的皮肉 俺たちの腐乱した皮と肉 那些迷途的惆悵、失敗的苦痛 彷徨の悲しみ 失敗の苦痛に 是寄予感動的熱泪、深切的同情 人が熱い感動の涙 深い同情を寄せようと 還是給以軽蔑的微笑、辛辣的嘲諷 軽蔑の笑い 辛辣な嘲諷を寄せようと 我堅信人們対于我們的脊骨 俺は断固として信じる 俺たちの背骨 那無数次的探索、迷途、失敗和成功 あの無数の探索 彷徨 失敗と成功に 一定会給予熱情、客観、公正的評定 人々が必ずやあたたかい、客観的で公正な評価を与えてくれるだろう、と 是的、我焦急地等待着他們的評定 そうなのだ 俺は彼らの評価を待ち焦がれている 朋友、堅定地相信未来? 友よ 断固として未来を信じよう 相信不屈不撓的努力 不撓不屈の努力を信じよう 相信戦勝死亡的年軽 死に打ち勝つ若さを信じよう 相信未来、熱愛生命 未来を信じ 生命を熱愛しよう 1968年・北京 この詩の書かれた一九六八年は中国共産党中央が紅衛兵運動を終結させる意志を固めた年である。 もともと紅衛兵は六六年五月に生まれた。郭路生十七歳の年である。彼らは自ら紅衛兵とは毛主席の革命路線を守る反修防修の尖兵なのだと考えていた。この 年八月毛沢東が紅衛兵の「造反」を支持し、彼らを接見したことから紅衛兵は急速に全国に広まった。紅衛兵たちは「旧世界」を破壊し毛沢東の革命路線の貫徹 する新世界を創り出すべく、学園から街頭に出て過激な活動を開始した。四旧[旧文化、旧思想、旧風俗、旧習慣]打破のスローガンの下に文物の破壊、ブル ジョア的と見なされる衣服を身につけた者への攻撃、伝統ある商店の襲撃、由緒ある地名の変更などが次々に行われた。この他に反革命修正主義路線を歩むとさ れた指導者や旧地主、資本家の居宅の襲撃、個人への暴行なども頻発した。北京市だけでも八ー九月の二か月間で一千人以上が殺され、四千九百余の文物が破壊 され、三万三千六百余戸の住宅が「抄家」と称する不法な捜索・襲撃に遭っている。同年九月以降、紅衛兵たちは「串連」[経験交流]と称して国内を移動しは じめた。「串連」は交通機関は無料、各地での宿泊、食事には国家機関の費用補助が行われた。紅衛兵以外にも多くの青年がこれに参加、全国を移動した。地方 に出掛けた紅衛兵にはそこの紅衛兵とともに地方党機関やその指導者たちの襲撃を行う者も少なくなかった。各地の党機関、政権機構は軒並み機能を果たさなく なった。大学から小学校まで授業は停止、工場でさえ生産中止をして「革命」を行うところもあった。これが少なくとも現象的に見た紅衛兵運動とその結果の素 描である。紅衛兵運動が全国に政治秩序の混乱、経済的損失をもたらしているのは確実であった。 こうした運動が党や国家の利害と衝突するのは当然である。張春橋、江青ら中央文革小組は初め紅衛兵組織を自分の統制下におき、彼らを利用して実権派を叩 こうと考えていたようだ。しかし紅衛兵組織の中には中央文革小組に言うことを聞かず、むしろ実権派を擁護するグループもあった。六七年に入ると中央の政治 闘争を反映して紅衛兵組織は大きく二派に分裂、それは末端組織にまで及び、両派は学園内外で多数の死者をだすほどの激しい武闘を展開するようになる。また 八月にはイギリス大使館に乱入、放火するなど外交関係にも影響する事件を起こすまでになった。中央文革小組は事態収拾のため六七年三月武闘を中止し「革命 的大連合」を実現するようよびかけ、九月には周恩来、江青、陳伯達らが首都の大学紅衛兵組織の代表を集め「今は正に紅衛兵たちが過ちを犯す可能性のある時 期だ」という毛沢東の意見を伝達したりした。毛沢東のいう「過ち」とは紅衛兵運動が党や国家の利害を浸食しその統制をはみ出して暴走することだった。十月 党中央は「学校に戻って革命をやる」方針を打ちだし、大学から小学校までの授業再開を決めた。しかし紅衛兵は社会と学園を動き回り、全国的な武闘は依然と して続いた。 こうした事態を背景に毛沢東は紅衛兵組織の解体を決意するのである。六八年七月二七日、解放軍と労働者代表によって組織された「工人宣伝隊」が大学など 学校に入った。これは紅衛兵の武闘を終わらせ、学園を正常化するための実質的な軍事管制であった。紅衛兵組織はこれに抵抗、例えば清華大学では紅衛兵側の 発砲で工人宣伝隊に五名の死者と多数の負傷者が出た。二八日夜明け、毛沢東は林彪らとともに北京の大学紅衛兵組織の重要指導者五人を呼び付け、学校内の武 闘と混乱を迅速に終わらせるよう厳しく要求した。これは実際には「紅衛兵に歴史の舞台から退場するよう要求する」ものであった。八月五日毛沢東はアフリカ の賓客からプレゼントされた金色のマンゴーを首都労働者毛沢東思想宣伝隊に贈った。その意味は明白であった。学校に次々と宣伝隊が進駐し始めた。八月二六 日「人民日報」に姚文元の論文「工人階級必須領導一切」が発表され宣伝隊が学校に長期にわたって駐留し学校を指導しなければならないと述べていた。六八年 夏の政治劇は、紅衛兵たちにとっては恐らく事態の唐突な変化であった。毛主席の革命路線を守る反修防修の尖兵だったはずの自分たちが、外から入ってきた宣 伝隊の管理下におかれることになった。「文革」はもはや自分たちの手の届かぬところに遠ざかってしまったのである(15)。 「相信未来」はこうした歴史的文脈の中で読む必要がある。第一連と第二連は運動の突然の終焉に対する批判である。第一連冒頭の一節「爐台」とは「コンロ やストーブの上面の平面で物を置く所」(『中日大辞典』)である。かつて赤赤と燃えていた「爐」は火が消えはや蜘蛛が糸を張ってそこに近付けないようにし ているが、しかし「俺」はまだくすぶり微かな煙を立ち上ぼらせる灰を執拗に均し、そこに「相信未来」と書きつける、というのである。ここに描かれた情景か らかつて理想に燃えて紅衛兵運動に参加した青年の鬱屈した挫折の姿を読み取ることはたやすい。「爐」は燃え盛っていた紅衛兵運動や文革の理想の、「蜘蛛の 糸」はそれを禁じた政治の力の比喩であろう。「無情」や「貧困」には政治の指導者に対する憤懣無念の思いが込められていようし、「嘆息」「失望」という語 は紅衛兵たちの状況を物語っていると考えてよかろう。第二連も同じである。「紫色の葡萄」や「鮮花」は運動や理想を象徴し、「更けゆく秋の露と化す」や 「他人の気持ちに寄り添う」が運動の挫折の、「凄涼たる大地」が紅衛兵たちの目に映じた退潮期の文革の比喩であることも確かだと思う。第三連以下は、未来 の評価を信じて運動の退潮期を乗り越えようとする作者(たち)の断固たる姿勢を形象化したものであろう。 文革の時期(いやそれ以前の十七年の共和国の時代に)一人の人間の精神世界の風景を、このように悲劇的な情念に塗り込めて描き出したものは誰もなかっ た。それは個人的な悲劇などあるはずがないことを建て前とする共和国に対する異議申し立てにほかならず、一種の〈政治犯罪〉を構成したからである。だが郭 路生はこのように生々しく紅衛兵の心情の真実を綴った。その詩は公的な世界で流布することはできなかったし、七〇年代初めには江青から名指しの批判さえ受 けた。だが正にその故に、郭路生の名とその「相信未来」は六〇年代末期の中国に密かに伝わっていった。楊健は次のように記している。 「《相信未来》というたった一編の詩によって、食指(郭路生)の名は満天下に轟いた。彼の詩は当時の青年の間に密かに非常に広範囲にる流伝していった。 山西、陝西北部であれ、雲南、海南島や北大荒であれ…およそ知識青年のいる場所であれば、手書きの食指の詩が秘密裏に伝わった。当時の人々は食指について 様々な推測をし、神秘的に言い伝えた。」(楊健『文化大革命中的地下文学』) では、知識青年たちはこの詩をどう読んだのだろうか。林莽はこう回想している。 「瞬く間にもう二十数年がたった。あれは“文化大革命”の時期のことだが、私は挿隊落戸の小屋の中で初めて彼の詩を読み心を揺さぶられた。私はあの仄の 暗くゆれる小さな灯を今もなおはっきり覚えている。“当蜘蛛網無情地査封了我的爐台/当灰燼的余煙嘆息着貧困的悲哀/我依然固執地舗平失望的灰燼/用美麗 的雪花写下:相信未来……”理想と憧憬が不意に破滅したあの時代、望みもなく憂いと悲しみの僻地での下放生活の中で、辺境と農山村に赴いた何万もの青年学 生の心の中で、食指(郭路生)の詩は限りない回想と渇望を呼び起こしたものだった。あの文学のない時代、空漠としたわれわれの精神世界の中では、彼の詩こ そがわれわれに一条の暖かい陽光をそそいでくれたのだ」(林莽「生存与絶唱」) 郭路生はこのように六〇年代末期の中国に、彼の世代の精神の風景を歌う歌手、あるいは内面の真実を記録する記録者として登場してくる。 ところで「相信未来」という詩の題名には、郭路生よりもう一つ上の世代の青春にまつわるエピソードが秘められている。ここではやや迂遠にわたるがそのことに触れておきたい。詩人・郭路生を生み出した環境を説明することにもなると思うからである。 近年、とりわけ天安門事件以降国外に出た文学者たちの回想等によって次第に分かってきたことだが、六〇年代の北京には高級幹部や知識人の子弟が作ったい くつかの(或いはいくつもの、というべきかも知れない)地下文芸サロンがあった。サロンといっても多くは彼らの通学する名門中学[高校]の同級生の集まり で、主な活動も「黄皮書」[幹部だけに購読が許される内部出版の小説]の読書会、自分たちの書いた作品を持ち寄っての批評会、朗読会、西洋音楽のレコード 観賞会といった活動が中心だったようである。そうしたサロンの一つに前述の張郎郎[中央美術学院の学生]らが六三年に結成した文学グループ「太陽縱隊」が あった。しかし結成大会を開いて数日後このサークルは自ら解散した。張郎郎の北京一〇一中学時代の同級生だった郭士英[郭沫若の息子で当時北京大学哲学科 在学、X小組という哲学サークルを組織]のサークルが摘発され逮捕されたからである。一方、中央美術学院には画学生のサロンもあり、張郎郎はそのメンバー とも親交があった。六四、五年ころその一人袁運生[画家、北京空港待合室の壁画の作者]の卒業制作「水郷的回憶」がブルジョア美術観の産物とみなされ批判 されることになった。これを聞いた張はその絵を学校から盗みだした。絵がなくなったため批判はできなくなった。これは重大な政治事件とされ公安機関が駆け つけて調査したが、結局当局は犯人を見付けることができなかった。一九六六年張は「太陽縱隊」、袁運生の絵、秘密のサロン活動等種々の理由で公安に追わ れ、南方に身を隠す。そして逃亡直前にサロンの仲間王東白のノートに「相信未来」と書き残したのだという。そして郭路生の「相信未来」は張郎郎のこの語を そのままタイトルにしたのだというのである。張はその回想記にこう書いている。 「郭路生(食指)が“幸存者詩歌節”[幸いにも生き残った者たちの詩歌祭]の参加の誘いに私を訪ねてきて、食指[人差し指]で私を指しながらこう言っ た。「遠慮することはありませんよ。僕のあの《相信未来》の詩は、あなたから題をもらったんですから」あの名作については、私も獄中で聞いたことがある。 七十年代に地下でその名が轟いた時期がある。白洋淀の好漢たち[文革期に河北省白洋淀に下放していた北京の文学青年たち]は、ほとんど皆知っており、読ん でいた。ある者は、あれは火種を手渡したのだ、と言った。/あの「相信未来」という四文字が、たとえ私が先に言ったものだとしても、それが何だというの か。本当の力は彼の詩自体に、彼の誠実真摯に、彼の敏感に、彼の激情にあるのだ。」(張郎郎「“太陽縱隊”伝説」) 「相信未来」とは、自らの行為や思想は否定されたが、しかし後世は必ずやそれを正当に評価してくれるであろうと信じる〈確信犯〉の言葉である。張郎郎の 行為は〈たった一人の反逆〉だったが、しかしそれは六〇年代中国の政治や社会道徳に対する同世代の青年の異議申し立てを代表していたといえよう。後世はそ れを理解するであろうーー「相信未来」にはそういうメッセージが込められていた。郭路生が張郎郎から借りたのは単なる文字だけではなかったであろう。 3 孤立と幻滅—「命運」その他 郭路生の詩で今読むことのできる最も早いものは六七年の作品である。「命運」「魚群三部曲」がそれで、それに次ぐのが六八年の作品群、「烟」、「酒」、 「相信未来」、「我最後的北京」などであり、やはり紅衛兵の間で書き写され広まった。阿城は六九年内蒙古に挿隊したが、そのときそこで知り合った挿隊仲間 から「酒」を見せられ自分のノートに書き写したと回想している。六八年にやはり内蒙古に挿隊した北京女子師範大付属中学(高校)の卒業生斉簡は「命運」を 読んだときのことを「これらの詩句を心の中で繰り返し吟唱した。まるで自分の心から沸き出してくるような、自分の血管の中を流れているような気がして、激 しく心揺さぶられた」と書いている(16)。 命運 運命 好的声望是永遠找不開的鈔票、 善き名声は永遠にくずせない紙幣 壊的名誉是永遠?不脱的枷鎖; 悪しき名誉は永遠に脱げないカセ 如果事実真是這様的話、 もし事実が誠にそうだとすれば 我願在単調的海洋上終生漂泊。 俺は単調な海上で生涯漂っていたい ?兒找得到結実的??? どこに行けば頑丈なサンパン(運搬用の小船)が見付かるだろうか? 我祇有在街頭四処流落、 俺はあちこちさすらうだけ 祇希望敲到朋友的門前、 友の戸を叩き 能得到一点菲薄的施舎。 いくらかの施しを貰えればと願うだけ 我的一生是輾転転飄零的枯葉、 俺の一生は転々と転がり散る枯れ葉 我的未来是抽不出鋒芒的青?; 俺の未来は穂の出ない裸麦 如果命運真是這様的話、 もし運命が本当にそうだとすれば 我願為野生的荊棘高歌。 俺は野のイバラのために声高く歌いたい ?怕荊棘刺破我的心、 たとえイバラが俺の心臓を刺し破ったとしても 火一様的血漿火一様地燃焼着、 火のような血漿が真っ赤に燃え ?扎着爬進喧鬧的江河—— もがきながら騒々しい江河に這い入るのだー 人死了、精神永不沈黙! 人が死んでも精神は沈黙せずに生きつづける! 1967年 冒頭の対句は北島の「回答」の書き出しを連想させる。「回答」の冒頭が七六年当時の中国の状況を述べたのだとすれば、「命運」の書き出しはその十年前、 文革初期の社会状況(ないしは社会意識)に対する詩人の認識を述べたものである。どんな「善き名声」も何の役にもたたない。だが一旦「悪しき名声」(例え ば反革命分子、裏切り者、右派分子等々のレッテル)を得たらもはや前途はない。それならば「単調な海上で生涯漂って」いる方がましだ。かといって自分を乗 せて生涯漂うような船も見付からない。自分を受け入れてくれる友人の間を転々としながら生きるほかないのか。それが自分の運命だとすれば、俺は光栄ある孤 立を甘受し、棘あるイバラ(他者を拒絶し不屈に生きる人)と連帯しよう。そのために肉体は死ぬとしても、その精神は生き続けるだろう。 こうした詩句の背後にはむろん、今日の勝利者は明日の敗者、昨日の革命家が今日は反革命として追放されるといった変幻極まりない現実が横たわっている。 表面的に読むと、詩人はそういう現実を逃避して「単調な海上で生涯漂っていたい」といっているように見える。しかしそれでは第三、第四連の断固たる姿勢と 矛盾する。この詩には紅衛兵として旗幟を鮮明にしながら闘いの日々を送った詩人の体験が強く反映されているように思う。それを根拠に、私は、ここのところ を「こういう変幻極まりない時代を乗り切るために、多くの人々は態度を曖昧にし、旗幟を明らかにしない生活を送っている。だが精神性を欠いたいい加減な生 活をして何になろう。それぐらいなら旗幟を鮮明にして生涯海上に漂うような孤立の生き方を選ぶ」という意味に取りたい(17)。 この詩の読みとして私が重要だと思うのは、この詩から闘いに勝利した者の声を聞き取ることができないという点である。文革は始まってようやく一年、紅衛兵運動が絶頂期にあった六七年、郭路生はすでに闘いに敗れた者の歌を唱い始めている。 「烟」は次のように書かれる。 烟 煙 燃起的香烟中飄出過未来的幻夢、 燻りはじめた煙草の中から未来の幻夢が飄い出したことがある 藍色的雲霧是?扎過希望的黎明。 青い雲と霧が希望の黎明を妨げたことがある。 而如今這烟縷卻成了我心中的愁緒、 だが今や この煙草の煙は心中の憂いの緒となり 匯成了低沈的含雨未落的雲層。 集まってどんよりした雨雲の層となった。 我推開明亮的玻璃窓、 俺は明るいガラス窓をおし開け 迎進郊外田野的清風。 郊外の田野を吹く清風を入れた。 多想留住飄散的烟縷—— 飛び散る煙の糸を残しておきたい—— 那是?向我告別的身影。 あれは俺に別れを告げる君の姿だから。 1968年 タバコを喫う。煙の彼方に「未来の幻」を追う。だが、やがて煙は「希望にみちた黎明」を遮る雲や霧のイメージに変わる。タバコを喫う詩人の胸に憂愁がひ ろがる。そうした思いを振り払おうと、煙のこもった部屋に清々しい外の風を入れる。しかしそれは「未来」をも追い出すことだ。 煙の彼方に彼が眺めた「幻夢」が何であったかは、書かれていない。しかしそれが文革に賭けた紅衛兵たち夢や理想であったことは疑いないと思う。「煙」は しかしそういう夢や理想を妨げる何かーその実体は煙のように朦朧として定かではないーーや、そのために胸に広がる得体のしれないもやもやとした感情(不安 や不快や憂い)をも象徴しているだろう。詩は、紅衛兵運動に確信をもてないでいる青年の心情を表現しているといえる。政治過程としての、権力闘争としての 文革はなお続いているが、郭路生の心の中では文革はもはや煙のように不確かな存在となっている。 4 悲恋—「酒」「還是干脆忘掉?」 酒 酒 火紅的酒漿彷彿是熱血醸成、 火のように赤い酒液はまるで熱い血で醸成したようだ 歓楽的酒盃是盛満瘋狂的熱情。 歓楽の酒盃は狂気の熱情を満たしている。 如今、酒盃在我的手中顫慄、 いま酒盃は俺の手のなかで震えている 波動中仍有次?一双美麗的眼睛。 揺れ動く酒の中にはなお君の美しい瞳が浮かぶ。 我已在歓楽之中沈酔、 俺はもはや歓びに酔い痴れている 但是為了心霊的安寧、 しかし心の安らぎのために 我還要干了這一盃、 やはりこの一杯を飲み干し 喝尽?那一片痴情。 君のあのひたむきな愛情を飲み尽くそう。 恋の歌であろう。恋といえば楊健は陳小雅という人物の回想に基づいて、郭路生が当時新疆ウィグル自治区党書記であった賽福鼎の娘・賽莎莎に恋したこと、 彼の詩の多くは賽莎莎に書き与えられたものであること、しかし賽家は彼らの恋を許さず、それが郭路生の精神病をもたらしたものであることを紹介している (18)。だが、この詩も賽莎莎に捧げられたものなのかどうか、今確かめる材料はない。次の詩も同じ時期の——これはもうはっきりと恋を歌った詩である。 還是干脆忘掉?? やはりきっぱり彼女を忘れよう 還是干脆忘掉??、 やはりきっぱり彼女を忘れてしまおう 乞丐尋不到人世的温存、 乞食には人の世の温かさなど見付けられない 我清楚地看到未来、 俺には未来がはっきり見える 漂泊才是命運的女神。 漂泊こそ運命の女神だ。 眼泪可是最貼心的愛人、 涙は最も心の通い合う恋人? 就象露珠親吻着花唇、 露の玉が花の唇に口づけするように 苦澀裏流露着浸泌的甘美、 苦渋の中に次第に滲み出る甘美が姿を現す 甘美尋不到一屑俗塵。 甘美には俗塵など見付けられはせぬ。 幻想可是最迷人的愛人、 幻想は最も魅惑的な恋人? 就象没有站穏脚跟的初春、 足元ふらつく初春のように 一手扶着揺曳的垂柳、 片手はゆらゆら揺れる枝垂れ柳にもたれ 一手招迴南去的雁群。 片手は南に行った雁の群れを招き返す。 繆斯可是最漂亮的愛人、 ミューズ(詩神)は最も美しい恋人? 就象展翅飛起的鴿群、 羽を広げて翔び立つ鳩の群れのように 遅緩地消失在我的藍天裏、 ゆっくりと俺の青空に消え 只留下鴿鈴那嫋嫋的余音。 鳩の鈴のあの嫋々たる余韻を残すだけ。 眼泪幻想?終将竭尽、 涙の幻想よ それも終いには尽きるだろう 繆斯也将眠於荒墳。 ミューズも荒れ塚に眠るだろう。 是等愛抛棄我?? 恋人が俺を捨てるのをまつか 還是我也抛棄愛人? 俺の方も恋人を捨てるのか? 還是干脆忘掉??、 やはりきっぱり彼女を忘れてしまおう 乞丐尋不到人世的温存、 乞食には人の世の温かさなど見付けられない 我清楚地看到未来、 俺には未来がはっきり見える 漂泊才是命運的女神。 漂泊こそ運命の女神 ここに吐き出されているのは、未練を断ち切ろうとする青年の揺れ動く心であるが、そこで気になるのは郭路生が「俺」を「乞丐(乞食)」と形容しているこ とである。なぜ「乞食」なのか。これは恋人の親たちから言われた言葉なのではないか。郭路生はこのころすでに賽莎莎と恋に陥っていたのではないか。新疆 ウィグル自治区党書記のサイフジンはいわば新疆の王である。「門当戸対」[家柄のつりあい]という語は社会主義中国でも、とりわけそうした観念と最も遠く なければならないはずの高級幹部によって形成される上流社会では死語ではなかった。ウィグル族社会では家柄の観念は濃厚であった。サイフジンは自らも詩人 だったがこうした伝統観念から自由であったとは考えにくい。郭路生と賽莎莎との恋が成就しなかった最大の理由は、イスラム教徒であるウィグル族と非イスラ ムの漢族との結婚に対する危惧だったと思われる。事実その後サイフジンは解放軍の大将だった葉剣英の孫と自分の娘との結婚もその理由で拒否している (19)。だから家柄の問題だけが障害になったとは言えないけれども、党の高級指導者で、新疆の名族たる賽莎莎の親の眼に郭路生など「乞食」同然に映った 可能性はあり、そうしたやりとりのあった可能性も排除できない。以上まったくの想像にすぎないが「乞食」という語にこだわったのは、郭路生の詩でしばしば 自分を否定的な存在に例える表現が現れるからであり、この詩がその最初のものだからである。 5 上山下郷—「這是四点零八分的北京」 六八年十二月二二日は文革、特に紅衛兵運動にとって重大な日付である。この日《人民日報》が「知識青年が農村に行って貧農下層中農の再教育を受けること は大変必要である。都市の幹部とその他の人を説得して、初級中学、高級中学卒の自分の子弟を農村に送るよう動員をかけねばならない」という毛沢東の指示を 発表した。この結果知識青年[都市の高校卒業生、ときには大学や中学卒を含むこともある]の農村定住運動、いわゆる「上山下郷運動」が全国に巻き起こり、 かつての紅衛兵たちが続々と辺境の農山村に移り住んだ。こうして紅衛兵運動は実質的に終りを告げる。十二月二二日は紅衛兵運動が上山下郷運動へと質的転換 をとげた、その終焉の日なのである。 その二日前の六八年十二月二〇日の日付で、郭路生は「這是四点零八分的北京」という詩を書いている。上山下郷運動は毛沢東の指示より前に各地の紅衛兵た ちの間で始まっており、例えば北京では六八年夏に最初の高揚があった(20)。二二日の指示はそれを政策として全国的に展開することを提起したものであっ た。もしこの日付を信じるならば、彼はこの日北京を離れて下放先の山西省汾陽県杏花村に向かったのである。 這是四点零八分的北京 四時八分の北京 這是四点零八分的北京、 これは四時八分の北京 一片手的海浪翻動; 一面の手の海が波のように揺れ動く。 這是四点零八分的北京、 これは四時八分の北京 一声雄偉的汽笛長鳴。 勇壮な汽笛が鳴り響いた。 北京車站高大的建築、 北京駅の巨大な建物が 突然一陣劇烈的抖動。 突然激しく震えた。 我双眼吃驚地望着窓外、 俺は驚いて窓の外を眺めている 不知発生了什麼事情。 何が起こったのか分からない。 我的驟然一陣疼痛、一定是 俺の心が不意に痛んだ きっと 媽媽綴扣子的針綫穿透了心胸。 ママのボタンを縫う糸が胸を突き抜けたのだ。 這時、我的心変成了一隻風箏、 この時 おれの心は風筝(タコ)に変わった 風箏的綫縄就在母親的中。 風筝糸はママの手に握られている。 綫縄?得太緊了、就要?断了、 糸がきつく張っていまにも切れそうになった 我不得不把頭探出車廂的窓?。 俺はしかたなく汽車の窓から顔を出した。 直到這時、直到這時候、 この時 ああこの時 我才明白発生了什麼事情。 俺はやっと何が起こったか知ったのだ。 ——一陣陣告別的声浪、 ——別れの声が波のように湧いては消え消えては起こり 就要巻走車站; 駅舎を巻き上げ連れ去りそうだ。 北京在我的脚下、 北京は俺の足元で 已経緩緩地移動。 もう ゆっくりと移動し始めている。 我再次嚮北京揮動手臂、 俺はもう一度北京に向かって手を振った 想一把抓住?的衣領、 彼女の襟を掴もうと思った。 然後対?大声地叫喊: それから大声で叫んだ 永遠記着我、媽媽?北京! 「永遠に忘れないでくれよ ママ 北京!」 終于抓住了什麼東西、 とうとう何かを掴んだ 管他是誰的手、不能松、 誰の手だろうとかまうもんか 緩めるな 因為這是我的北京、 なぜならこれは俺の北京 這是我的最後的北京。 俺の最後の北京なのだから。 1968年12月20日 郭路生の作品の中ではこれだけが異質だという印象を受ける。彼の詩はふつう具体的な事実をかなり抽象化し、それを悲哀や幻滅などの感情で染めあげるとい う手法を採るのに、この詩は事実に即きすぎているためだろう。しかしこの詩は郭路生詩の中では最も知名な作品の一つで、洪子誠『中国当代新詩史』などは高 い評価を与えている(21)が、私には完成度の高い詩とは感じられない。この詩は後に《今天》第四期(79年6月)に発表され、これを初出とみなしていい が、一般の目に触れるようになったのは、そえより更に遅く《詩刊》八一年第一期に発表されてからのことだった。《詩刊》掲載作は初出と対照すると幾つかの 語句の異同がある。洪子誠は《詩刊》掲載作を根拠に、後の朦朧詩を生み出すような心理的背景をこの詩に見ている(22)がいかがであろうか。この詩が文革 期の知識青年の間で広く読み伝えられたが、その理由は、一つには市民的意識からみた上山下郷運動の一面という珍しい素材を扱っているため、もう一つはこの 詩のリズムが音楽的に美しく、朗読にふさわしいからであろう。 農山村に赴く知識青年とその家族の駅頭での別れは六〇年代末から七〇年代半ばまで絶えず繰り返されてきた情景だった。多くの青年たちが毛沢東の呼び掛け を信じ、新しい可能性を求めて農村に赴いたであろう。だがそうでない若者も決して少ない数ではなかった。しかしそうした若者のいわば女々しい心情が、当 時、文学として描かれることは有り得なかった。上山下郷運動が毛沢東の呼び掛けである以上、それに応じる青年たちが革命者でないはずがなかったからであ る。郭路生の詩は当時決して公の文字になることのなかった上山下郷運動の真実の一面(革命的な貌の下に隠された青年たちの女々しい心情)のほとんど唯一の 記録である。そしてそのことが朗読に向くリズムを内在させていたことと相俟って、この詩を当時の青年たちの間に流伝させることとなったのである。 6 疎外感と怒り—「寒風」「憤怒」 下放先の杏花村は杜牧の「借問す酒家は何処に有りや、牧童遥かに指す杏花村」で知られる名酒汾酒の産地である。だがそこでの生活は決して愉快なものでは なかったようだ。次の「寒風」は制作年代から見れば、下放先での体験を述べたものと思われるが、郭路生はこの詩でも「俺」を「四方を流浪する」「乞食」だ と書いている。 寒風 寒風 我来自北方的荒山野林、 俺は北方の荒れ果てた山野から 和厳冬一起在人世降臨。 厳しい冬とともに人の世に降りてきた。 可能因為我粗野又寒冷、 俺が荒々しく凍えるほど寒いからだろう 人們対我是一腔的讐恨。 人びとは俺をひどく憎んでいる。 為博得人們的好感和親近、 人に好かれ仲善くしたいため 我慷慨地散落了所有的白銀、 俺は持ってる銀貨全部を気前よくばらまき 並一路狂奔着?向村舎、 直走りに走って村の家々に向かい 給人們送去豊収的喜訊。 人びとに豊作の吉報を届けたものだ。 而我却因此成了乞丐、 だが俺はそのため反って乞食になり 四処流落、無処栖身。 四方を流浪し身を置くところもない。 有一次我試着闖入人家、 一度試しに人の家に押し入ってみたが 却被一把推出窓門。 ひと押しに窓と戸口から押し出された。 緊閉的門窓外、人們聴任我 人びとはぴたっと閉まった戸や窓の外で 俺が 在飢餓的暈旋中哀号呻吟 ひもじさに眩暈し悲しく叫び呻くのに知らん顔。 我終於明白了、在這地球上 俺にはとうとう分かった この地球で 比我冷得多的、是人們的心。 俺よりももっと冷たいのは 人びとの心だ。 1969年夏 上山下郷運動を賛美した詩として有名な高紅十ら北京大学工農兵学員による「理想之歌」では、農村に入った知識青年が貧農下層中農の教育によって成長して いくさまが描かれている(23)。だが現実はやはり甘くはなく、下放した知識青年と受入れ先の農民との関係がうまくいかない例が少なくなかった。ただそう した事実が文学作品に描かれた例は、公然文学の作品にはまずなかった。郭路生詩のように地下で流通した作品にもそれがあるかどうか。ここに「寒風」と「人 びと」との関係として描かれているものが、都会からやって来た、農作業もなにも知らない下放知識青年たちとそれを迷惑がる農民との関係の比喩であるという のが、私の理解である。もしそういう理解が正しいならば、ここには実際にはよく知られていながら、誰も口にしようとしなかった、当時の農村における下放知 識青年の位置(歓迎されざるよそ者)が書き留められていることになる。 だが、この詩は必ずしも下放青年と農民の関係をテーマにしたものではないかもしれない。この詩の主人公(「寒風」「俺」)はもともと人に嫌われても仕方 のない存在である。そうした存在がある時新しい土地にやってくる。そして、なんとかして新しい環境に馴染もう、そこに住む人たちに受け入れてもらおうと努 力する。だが、結局受け入れられず、ついにはそこから弾き出されてしまう。これが詩を構成する物語であり、そこから生まれる主人公の疎外感、孤立感、そし てこんなに一生懸命やったのに、という屈折した怒りや敵意などが、この詩のポエジーを形成していると言える。だとすれば、それは嫌われものの紅衛兵たち が、その歴史的使命を終えて、社会各層に入り込もうとしたとき、社会全体から被らざるを得なっかったさまざまな抵抗の物語と読むことができる。それは下放 先の農村に限らず、工場や商店や事務所など(あるいは家庭でさえ)、元紅衛兵たちの行く先々で普遍的に起こり得た物語だった。だとすれば、この詩は、新し い環境に入り込もうとして、疎外感や孤立感に襲われていた同世代の青年たちに共通の感情を定着したものということになる。私は先にも言ったように、この詩 を下放体験を書いたものと見るけれども、このように個人体験を描いて、世代に共通な意識を獲得し得ている点に、郭路生詩の優点があるといわねばならない。 同じことは「憤怒」についても言える。「憤怒」は制作時期がはっきりしないが、おそらく同じ頃に書かれた、次のような作品である。 憤怒 憤怒 我的憤怒不再是泪雨滂沱、 俺の憤怒はもはや滂沱と流れる涙の雨ではない 也不是圧抑不住的満腔怒火、 押さえきれぬ全身の怒りの炎でもない 更不指望別人来幇我復讐、 まして人が復讐してくれることなど望みもしない 尽管曽経有過這様的時刻。 かつてそんな時もありはしたが。 我的憤怒不再是忿忿不平、 俺の憤怒はもはや鎮め難い不満ではない 也不是無休無止的評理述説、 止むことなく口を出る黒白の訴えでもない 更不会為此大声地疾呼吶喊、 ましてそのために大声で喚き叫ぶことなどありえぬ 尽管曽経有過這様的時刻。 かつてそんな時もありはしたが。 雖然我的臉上還帯着孩子気、 俺の顔にはまだ稚気が残り 尽管我還説不上是一個彊者、 自分が強者だなどとはまだ言えないが 但是在我未完全成熟的心中、 まだ完全には成熟していない俺の心の中で 憤怒已化為一片可怕沈黙。 憤怒はもはや全くの恐るべき沈黙と化している。 「もはや…ではなく、まして…ではない」というリフレインは、かつてはそうであったことを示している。かつてはどうであったか。かつては憤怒の余り滂沱 たる涙を流し、抑え切れぬ怒りの炎を持て余し、誰かが復讐してくれればいいとさえ思った。かつては不平不満を抑えられず、自分を正当化する理屈をひっきり なしに述べたて、大声で叫びもした…。だが今それは「一片の恐るべき沈黙と化し」た。顔にまだ幼さの残る自分の心はもはや老成した成人のように情熱を失っ ている。 この詩の成立に何か具体的な物語を想定することが許されるなら、それは破局に終わった恋であろう。つまりこの詩は「酒」「還是干脆忘掉??」の系譜に連 なる作品だというのが私の想像である。しかしこの詩もまた紅衛兵運動を闘った青年の、歴史から弾き出された憤激と、時間の経過とともに激した感情が宥めら れ、やがて「恐るべき沈黙」に変わって行く心情の変化を歌ったものと読むことができる。こういういわば痛ましい心情の成り行きは、普通人のそれであっても 同情を感じさすものだが、紅衛兵世代は、そこに個々人の具体的な闘い——挫折の体験を投入しすることで、この心情を共有することができた。郭路生の詩が強 い文学的共感をひきおこすことができた理由もそこにある。 7 被害者意識の歌—「瘋狗」 林莽は「一九六七ー一九七〇年の間に、食指は初期の創作における最も重要な作品を書き上げてしまった」、彼の初期の重要な作品は「ほとんど一九六七年と 六八年の間に完成した」と書いている(24)。詩集には全て二十五首の作品を収めるが、そのうち制作時期のわかる二十一首中七首が六九年までに書かれてい る。われわれが次に読み得るのは七八年の日付をもった「瘋狗」である。林莽が「十年近い沈黙の後、七九年彼の短詩《瘋狗》が再び人々の重視を引き起こし た」(25)と言っているように、六九年以後の約十年、彼はほとんど作品を書かなかったようである。そしてこの十年の間に、伝記の項で紹介した農村を離れ て工場労働者になり、解放軍に入り、そして除隊するという経歴があり、また賽莎莎との破局に終わった恋愛、精神病の発症といった体験が挟まれているわけで ある。 この間、郭路生の名は細々ながら非公然文学のネットワークを作り上げていた「地下詩人」たちの間ではすでによく知られるようになっていた。だが、彼の詩 が印刷物の形で一般の目に触れるようになるのは《今天》を通じてである。《今天》は第二期(七九年二月刊)に「相信未来」「命運」「瘋狗」を掲載したのを 皮切りに、「魚群三部曲」(三期)、「這是四点零八分的北京」(四期)、「烟」(五期)、「還是干脆忘掉??」「酒」(八期)、「憤怒」(「今天文学研究 会資料」)と次々に彼の作品を載せた(26)。それらのうち、最も新しい日付(七四年)をもつのが「瘋狗」だった。詩の末尾に記された一九七四年という年 代を信じるならば、これは郭路生が文革期に書いた最後の作品ということになる。だが、実はこの詩は詩集では七八年の日付になっている(詩の語句と構成は全 く同じ)。その上、《今天》発表時にはなかった「致奢談人権的人們」(大いに人権を談ずる人達に)という副題がついている。「人権」という語およびその観 念は七八年秋の北京の民主化運動で盛んに提起されていた。郭路生はそれに触発されてこの詩を書いたのではないかと思う。だが厳力にも「文革期には紅衛兵の 中に彼の詩は流布していた。「我是一条瘋狗」は人口に膾炙したものだ」という回想(27)があるので《今天》掲載詩の「七四年」は誤植ではないだろう。と すれば、この詩の原形は七四年に完成していたが、詩人が七八年当時の民主化運動に触発され、詩の結びを「放棄所謂神聖的人権」と変え七四年の作品として発 表した。だが詩集に入れるに当たって副題を添え最終稿の日付に改めた、と考えるのが一番合理的な解釈かもしれない。 瘋狗 狂犬 受校無情的戯弄之後, 情け容赦もなくたっぷりなぶりものにされた後 我不再把自己当成人看, 俺はもう自分を人と思わなくなり 彷彿我成了一条瘋狗, まるで狂犬にでもなったように 漫無目的地遊蕩人間。 あてもなく人の世をふらついている。 我還不是一条瘋狗, 俺はまだ狂犬ではないから 不必為飢餓寒去冒風険, 飢えと寒さのために危険を冒す必要はない。 為此我希望成条瘋狗, だから俺は狂犬になり 更深刻地体験生存艱難。 生存の困難をいっそう深く体験したいのだ。 我還不如一条瘋狗! 俺はまだ狂犬にも及ばない 狗急它能跳出墻院, 犬なら苛立てば塀を跳び越えて外に出ることもできる。 而我只能黙黙地忍受, だが俺は黙って堪え忍ぶのみ 我比瘋狗有更多的辛酸。 狂犬よりももっと辛く哀しい。 假如我真的成条瘋狗, もし本当に狂犬になったら 就能?脱這無形的鎖煉鏈, この無形の鎖から脱け出せるのに…… 那麼我将毫不遅疑地 そうすればいささかのためらいもなく 放棄所謂神聖的人権。 いわゆる神聖なる人権など放棄するのに。 林莽によれば、郭路生が精神分裂症を発病し入院するのは七三年のことである。精神病には大きく分裂病と躁欝病の二つがあるといわれる。精神医学者の内沼 幸雄によれば、分裂病によく見られる症状は妄想と幻覚で「その妄想としてよくみられるのは注察妄想(他人に付き纏われたり、見られたりすると思い込む)、 被害関係妄想、迫害妄想などである。それらの妄想に共通するのは得体の知れない他者の出現である」。さらに分裂症には思考吹入、思考奪取等という「得体の 知れない他者の巨大な力によって翻弄されるままとなる」症状があり、これに対抗するには「自閉よりほかに手段がない」のだという。また躁欝病の特徴は「自 己の無価値に対する妄想的確信」と「世間が自分の思いどおりになると思い込む」「自我感情の高揚した誇大妄想」にあるという(28)。 こういう記述を読むと「瘋狗」には「時代」という以外に特定のしようのない「得体の知れない巨大な力に翻弄され」「黙って堪え忍ぶ」より仕方のない郭路 生の分裂症的感じ方と、自分を「人間と思わなくなり」「狂犬にもおよばない」と感じる欝病の「自己無価値感」的感じ方の両方が混在しているように思う。む ろんこれは素人の感想に過ぎない。郭路生の詩にはその初期から強い被害者意識(ときには被迫害者的意識)が見られ、それが彼の詩の魅力や迫力(時代を告発 する力)の要因になっていたが、それは多分に生得の病的気質に起因するものだったのであろう。徐敬亜は《今天》の詩を論じた「奇異的光」の中で「瘋狗」を 引いて「これは作者たちが発狂した自己の魂を嘲っているというよりは、むしろ発狂した時代を憤怒の鞭で激しく打ち据えていると言うほうがいい」と書いてい る(29)。だが私にはこの詩は彼自身の心の風景を描いているように思える。迫害や被害に過敏に反応してしまう彼の病的な感受性が写しとった心の世界は、 そのまま時代における彼らの世代の悲劇的な位置でもあったのである。 8 文革期文学における郭路生詩の位置 以上郭路生の詩を文革期の作品を中心に紹介してきた。では「文革期文学」という視点からみた彼の詩の位置はどういうものだろうか。次にこの問題を考えて みよう。ただ、文革期文学という用語は、その内容規定も含めまだ成熟した用語ではない。そこではじめに用語の内容を簡単に説明しておきたい。 文革期文学の定義 ここで文革期文学というのは一九六六年ー七六年の期間、つまり文革期に出現した文学(作品、批評、文学理論)を指す。従って文革後に書かれた、文革に取材した文学はここに含めない(これは「文革文学」とよぶべきであろう)。 二種類の文学 文革期の文学には、A、体制に公認された出版物の形で流布した文学(これをとりあえず「公然文学」とよぶことにする)と、B、回覧や手 抄、手紙などの形で個人やごく狭いグループ間で流布した文学(これを「地下文学」ということにする)の二種類があった。この二種の文学は基本的に交わるこ とがなかったので、これを別々に考察するほかないが、地下文学については今のところ資料がほとんどない。そこで小論では、とりあえず先に公然文学について 述べ、それとの対比で郭路生詩の特徴を考えることにしたい。 時期区分 文革期の公然文学にもその発展消長歴史があった。私見によればそれを大きく前期・後期の二つに区分することができる。前期は六六ー七二年であって、いわ ゆる十七年の文学が批判され、文壇が解体した時期である。文学活動は紅衛兵などの新聞、雑誌に細々と展開されるに過ぎなかった。詩や民間芸能の形式を利用 した実権派批判などが主流で、小説も文芸批評もほとんど見られない。いわば文革期文学の混沌・萠芽期といっていい。後期は七二ー七六年で、停刊していた雑 誌を復刊させ、労農兵出身の作家を養成し、既成作家を部分的に解放したりして、新興労農兵勢力による文壇構築をはかった時期である。いわば文革期文学の展 開期である。ただそれも「四人組」の逮捕によって唐突に終焉する。 文学的特徴 次に文革期公然文学の特徴というものを考えてみる。今考えていることを列挙すると、次のような幾つかが挙げられる。 1 創作動機と主題の政治性(文革の政治過程のそれぞれの時期の政治目標に奉仕するという明確な創作目的、ないし動機がある) 2 作者の非私性・無名性・匿名性(作者は個人の私的な感情や思想を表現せず、仮想された集団[我々]の思想や感情を述べている。また作品自身がしばしば本名ではなく集団[例えば三結合写作小組等]の名で発表される) 3 言語・文体の戦闘性・煽動性(「敵」の暴露と打倒、「味方」の士気高揚にむけて読者の感情を組織しようとする言語・文体の意図的多用) 4 感性の偏向(感傷、哀感、繊細な[暗い・しっとりした]感性の徹底的排除、逆に豪快、粗放、殺伐、激越な[暴力的な、ドライな]感性の重視) これはもう少し整理が必要だが、さしあたって文革期に書かれたいろんな文学作品の共通の特徴をこの4つにまとめてみたのである。 以上が私の考える、文革期公然文学の内容の概略である。次はこの規定を基準に、彼の詩の文革期文学における位置を探る段取りである。 郭路生の位置 まず郭路生の詩は個人の手抄の形で流布したものであり、地下文学に分類される。時期的に言えば、(詩集所収の作品に拠るかぎりでは)その執筆活動は六七—六九年の間に集中しており、公然文学の区分で言う前期に活躍した詩人ということになる。 作品の特徴はどうであろうか。 主題・創作動機 これまで見てきたように、彼の詩作品はそのすべてが、紅衛兵運動と上山下郷運動を下降の感性で受け止めた知識青年の内面を主題としたものである。そこに は、文革の政治目標に奉仕しようというふうな動機は些かもない。彼はひたすら彼個人の(郭路生という一個の青年の)内部世界の風景を描こうとしている。そ ういう点から言えば彼の詩のモチーフは極めて非政治的、私的、文学的なものであった。またこの点において、公然文学の多くがその文学的感性、文学の質にお いて前の時代(十七年)の文学と繋がっていても、次の時代(新時期文学)に継承される「質」をもたないのに対し、郭路生詩は(《今天》の詩人たちを介し て)新時期文学に繋がることができたのである。 心情的モチーフ(30) その作品の心情的モチーフは孤立感、疎外感、被害感、憤激、悲哀感、自己無価値感といった、いわば負の感覚である。そういう心情を生み出しているのが、 歴史の参与者であった者が突然その位置から追われた、文革運動から弾き出され、世に容れられないという被害者意識である。そして彼自身の気質的傾向がそれ を助長していると思われる。 言語的特徴 言語の面では感傷的な、暗いイメージや情感を表す語彙が多用される点に特色がある。例えば、形容詞や動詞では悲哀、嘆息、無情、失望、凄涼、迷途、惆悵、 失敗、苦痛、冷漠、、徘徊、昏迷、消亡、憤怒、漂泊、告別、呻吟、低沈、流落など、名詞では流浪児、乞丐、眼泪、枯葉、寒風、寒雨、細雨、泪雨、幻夢、命 運、荒墳などがそれである。こうした語彙のこれほどまでの使用は、文革期だけでなく、それまでの解放後のどの詩作品にも見られない特徴である。 文学形式 文革期文学前期の作品、特に紅衛兵新聞などの詩作品はそのほとんどが絶句、律詩といった伝統的定型詩のスタイルで書かれている。郭路生はそういう伝統的 なスタイルをそのまま用いていない。しかし、その詩は全て四句一連から成るという特徴をもつ。また、それらは短いもので二連(例えば「烟」)、長いものは 三七連(「魚群三部曲」)に及ぶが、各詩各連は現代漢語の範囲で緩やかな韻を踏んでいる。各連の字数は必ずしも一定ではないが、四句一連の内部は意味的な まとまりをもつ前二句と後二句の二つの部分から成るのである。こうした点からみて、郭路生の定型意識はかなり強いということができる。そしてこのスタイル は朗読に適し、彼の詩が広まるのに大いに与かって力があったと思われる。 最初にあげた四点の特徴を備えたものを文革期の公然文学のある典型というとすれば、郭路生の詩は、この四つのどの特徴も備えていない。彼の詩の特徴はど の一つをとってもこれらの対極にある。そういう点では彼の詩は「反」公然文学的あるいは「非」公然文学的といわざるを得ない。地下文学の文学的特徴を整理 するにはまだ資料が少なすぎるが、郭路生詩の持つ右のような性格は、今後地下文学の特徴を考えるときの有力な材料になるだろう。 9 郭路生詩成立の根拠 さて、しかし、イデオロギー面で特に厳しい統制下におかれていた文革期に、どうして郭路生詩のような「反」文革的、あるいは「非」文革的作品が生まれ、流通することができたのだろうか。 その理由の一つは、文革という権力闘争が、権力闘争の必然として生み出さざるをえなかった膨大な敗者たちの心情の存在である。 真善美の価値の判定を「党」に委ね、私的な真善美の価値判断を躊躇または停止する、というのが従来の感性の在り方であった。解放後の文学はそういう感性 によって形成されていたし、そういう感性を盛った作品のみが流布していたといって過言ではない。「感性の在り方」に限っていえば、文革は、こうした在り方 (「党」の判断以外の判断を許さない)を強化する運動にほかならなかった。だが、一方で文革は理念的な党権力を強化するために、現実に機能している党権力 を解体ー再編する激しい権力闘争であった。権力闘争の参与者たちはその過程で必然的に様々な人間性の悲劇や喜劇に出会わざるをえない。紅衛兵運動一つとっ ても、そこにはセクト間の対立抗争があり、家族や友人や自分の恩師たちとの対立、愛憎、集合別離といった体験があった。闘いの中では死や負傷、病気、裏切 り、恐怖心、家族関係や集団内部での人間関係など、さまざまな理由で闘いから離脱したり、脱落したり、疎外されたりする者が生まれた。それとともに死者、 負傷者、裏切り者、脱落者、挫折者、こうした闘いの敗者たちのいろいろな思い——恨み、悲しみ、諦め、嘆き、不安、孤独、閉塞感、無常感など——が生まれ た。だが文革期の中国には、こうした負の感情は反社会的、非プロレタリア的だという共通の認識があった。個々人にはそれを吐き出すことへのためらい、ぶち まけてはならないという自己規制が広く存在していた。こうした心情は中国社会の底に沈殿するほかなかったのである。こうした感情ははじめは運動における敗 者個人のものでしかなかった。しかし六八年暮れ上山下郷運動が始まり、かつての紅衛兵全体が文革の政治運動から切り離される事態になるや、こうした感情は この世代に共通のものとなったといえるだろう。郭路生の詩はそれを歌ったのである。 もう一つは、文革の権力闘争の結果、日常的な社会統治機能が弱まり、その空隙に「地下文学」を発生させ、その存在を許容する空間が生まれたということである。 繰り返せば、文革期の権力闘争の結果、日常生活の隅々まで貫徹していた党の支配機能が停止したり、混乱したりした。その混乱が社会に支配権力の及ばない 空間を作り出していた。それは例えば紅衛兵の内の文学好きの仲間の小さなサークルだったり、知識人も含む秘密のサロンだったり、後には辺境の農山村に下放 した青年たちの住むあばら屋だったりした。そうした空間内部には、公認の真善美感に必ずしもよらない、あるいは著しくそれに反するような作品が書かれて も、それを正当に評価し、歓迎し、それを保護する人々が存在したのである。六〇年代の都市知識人社会にすでに秘密サロンの形で存在したこうした空間は、文 革期には全国に拡大していた。その一つ一つは小さな点に過ぎなかったが、全国に散在する無数の点は友人同士の手紙のやり取りやノートの交換といった私的手 段で繋がれ、その私的ルートを通じて、公的には流通しない作品が流布されていった。ある作品が流布するかどうかは全く個人の審美眼に拠った。余りうまい比 喩ではないが、それは真善美の判定権を個人が奪還した感性と審美の共同体であった。その領域がどれだけあり、その人口がどれだけか、誰も知らない。しかし それは確かに実在し、そこでは不健康な主題も、退廃的な感情も、感傷的な文字も、個人がよしと判断すれば直ちに流通ルートにのって広まった。 文革期といういわば詩の困難な時代に、郭路生のような反時代的な詩が成立し、流布した根拠は以上の二点にあると思う。 以上をまとめれば、次のようになろうか。紅衛兵(政治的主人公、都市の知識青年)から下放青年(再教育の対象、貧困な農村の農業労働力)へのコースを 辿った文革期の青年たちの心の底には「落魄者の悲哀」や「被害者の恨み」といった感情が澱のようにたまっていたと思われる。だがそうした感情は、それ自身 が国家権力への批判であるため、公然化することはなかった。郭路生の詩は彼の同世代の心にたまったこのような感情(内面の真実)を歌ったものだった。それ ゆえ彼の詩は一定の普遍性をそなえ、広く紅衛兵=下放知識青年たちに読み伝えられることとなった。しかし同時にそれは地下文学として流通するほかなかった のである。だがその詩が内面の真実を描いていたがゆえに、彼は八〇年代の新しい文学の源流になることができた。郭路生詩のこのような在り方は、文革期公然 文学に対する彼の作品の優越性を示すものである。 終りに—郭路生詩の現在 初めにも紹介したように、九三年郭路生詩をテーマとする討論会が開催された。《中国作家》九三年 期は彼の詩をまとめて掲載した。様々な出版物に彼の名 が現れ始めた。郭路生詩は二十五年の歳月を経て地下から地上に現れた。それは既成詩壇に彼を正当に評価しようという気運が生まれたということであろうか。 むろんそうには違いない。しかし一歩進めて考えれば、そういう気運が生まれたのは、中国社会が文革体験を相対化(より正確には風化)しうるほどに< 成熟>したためである。だが郭路生の詩は文革後の中国社会にすんなり適応し、体制にとって<無害>なものに変わっているのだろうか。私 にはそうは思えない。文革期の公然文学に対するアンチであった彼の詩は、文革後の時代に対しても一つの<異和>として存在しているように見え るのだ。それは文革後の詩についても同様である。 人們会問?到底是什麼 人々は問うだろう お前は一体何者かと 是什麼都行但不是詩人 何者だってかまわないが 詩人ではない 只是那些不公正年代里 あの不公正だった時代の 一個無足軽重的犠牲品 取るに足りない一人の犠牲者に過ぎない 「詩人的桂冠」の最終連、「一九八六年精神病院にて」とある。文革の記憶や意味が、八〇年代以後の中国社会の<成熟>とともに、日常性の中 に拡散し、風化していくとき、彼は精神病院の孤立の中で生々しく<あの時代>と格闘している。その苦闘の中から紡ぎ出される詩は「あの時代」 のことを語っているのに、現在(いま)の現実を描いているように見える。私たちは彼の詩に、文革後の社会の<成熟>★必然的に生み出す新たな (現在の)敗者たちの感情(文革後の時代を告発する声なき声)を聞くことができる。これが郭路生詩の中国社会の現在に対してもつ意味である。 注 (1)一々挙げないが、例えば北島は「私は一九七〇年から現代詩を書き始めました。当時私は北京の青年詩人の影響を受けました。彼の名は郭路生で、ペン ネームを実子(食指の誤り—岩佐)といいます」(ミシェル・ボーナンら「訪問北島」《争鳴》85年8期)と明言している。江河は「郭路生を読んで初めて自 分たちにも詩が書けるということを知った」(王光明『艱難的志向』[注4ーB]に引く)と言っている。 (2)「地下」の含意については本稿第9節参照。 (3)拙稿「〈近代〉を獲得しようとする詩人たち—《今天》覚書きー」『中国詩人論 岡村繁教授退官記念論集』汲古書院、86年10月刊参照。 (4)郭路生についてのある程度まとまった紹介に次のものがある。 A.阿城「昨天今天或今天昨天」《今天》91年3期。 B.王光明『艱難的志向—“新詩潮”与二十世紀中国現代詩』時代文芸出版社、93年6月刊の第三章、第四章。 C.楊健『文化大革命中的地下文学』朝華出版社、93年1月刊、の第三章。 D.『食指詩集』[注6]の林莽の序「生存与絶唱」。以下本文で阿城、王光明、楊健、林莽とあればそれぞれABCDの資料に拠ることを意味する。 (5)『食指 黒大春現代抒情詩合集』成都科技大学出版社、93年5月刊。全78頁、うち郭路生の作品は1—42頁。 (6)文革期文学研究はこれまでずっと無視されてきた。管見の限り、その最初のものは潘凱雄、賀紹俊「文革文学:一段値得重新研究的文学史」《鐘山》89 年2期(なお《鐘山》同号は文革期文学研究特集)である。93年1月に楊健『文化大革命中的地下文学』[注4−C]が出版されるや、これに刺激され謝冕ら 「研究文革文学」《文芸争鳴》93年2期などが現れ、専論として新宇「“文革”詩歌略論」《斉魯学刊》93年3期、劉火「自卑与自大共演的悲劇—論“文 革”的文学精神」《飛天》93年9期などが書かれている。 (7)王光明(注4−B)による。 (8)阿城(注4‐A)による。 (9)張郎郎「“太陽縦隊”伝説」《今天》90年2期。 (10)王光明によれば最初に影響力をもった詩に「再掀不起波浪的海」(「もう波を起こせない海」)があり、紅衛兵の自己に対する信仰と動揺、幻滅を描いているという。 (11)この事情は、唐純良『李立三伝』黒龍江人民出版社、84年10月刊、および李永編『”文化大革命“中的名人之死』中央民族学院出版社、93年8月刊所載の「華北局書記李立三之死」による。 (12)多々「1970—1978北京的地下詩歌」《今天》91年1期。 (13)斉簡「詩的往事」《今天》94年2期。 (14)郭路生の詩は多分多くが手抄によって流布したためだろう、テキストによって字句の異同がある。小稿では基本的に『食指詩集』(注5)に従う。 (15)以上の記述は主として火木『光栄与夢想—中国知青二十五年史』成都出版社、92年8月刊によった。 (16)斉簡[注13]。 (17)陳超編『中国探索詩鑑賞辞典』河北人民出版社、89年8月刊には「四点零八分的北京」と「命運」が採られている。ここの解釈は陳超の説から示唆を受けている。 (18)楊健(注4−C)。その第3章。陳小雅の文は雑誌《海南紀実》(不詳)に掲載されているというが未見。 (19)新疆師範大学講師リズワン女史(ウィグル族)よりの聞き取り(95年4月) (20)杜鴻林『風潮蕩落 中国知識青年上山下郷運動史』海天出版社、93年3月刊、その第2編による。知識青年の上山下郷運動については九十年代以降当事者たちによる歴史的整理が行われ始めており、注16の火木の著書などはその早い時期の成果である。 (21)洪子誠・劉登翰『中国当代新詩史』人民文学出版社、93年5月刊。 (22)例えば第2連「北京車站高大的建築、突然一陣激烈的抖動」の「抖動」(震えた)が《詩刊》では「晃動」(ぐらりと揺れた)となっている。洪子誠は それを「傾斜的感覚」と呼び、この感覚は「この世代の青年のうち比較的早く思考に入った者たちの心理状態」で「こういう精神的矛盾の存在を、新潮詩の懐 胎・出現の心理感情的基礎あるいは背景と見なすべきだ」と書いている。 (23)北京大学中文系文学専業72年級工農兵学員『理想之歌』人民文学出版社、74年9月刊、に所収。なお拙稿「文革期文学の一面——高紅十と『理想之歌』を中心に」神戸大学中文会《未名》創刊号、82年2月刊を参照されたい。 (24)(25) 『食指詩集』[注6]の林莽の序「生存与絶唱」。 (26)是永駿編「『今天』総目録(初稿)」《野草》55号、95年2月を参照した。 (27)内沼幸雄『羞恥の構造—対人恐怖の精神病理』紀伊国屋書店、83年2月刊。その第5章の「対人恐怖から見た二大精神病論」。 (28)許行「今天派和星星画派—在香港見到厳力」《九十年代》85年6期。 (29)徐敬亜「奇異的光—《今天》詩歌読痕」《今天》9期、80年3月刊。 (30)「心情的モチーフ」という考え方、およびこの節の着想は見田宗介『近代日本の心情の歴史 流行歌の社会心理学』講談社学術文庫版(78年4月)の恩恵を受けている。 一九九五年五月六日未明 一九九六年一月整理 |