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 反右派闘争から文革発動前までの略年表 (56-65年)   (2001年6月13日作成)
 
 年表の作成にあたっては、以下の資料を参考にさせていただきました。

『「文 化大革命」簡史』(中央公論社)、『原典中国現代史 政治(上下)、思想・文学巻』(岩波書店)、『中華人民共和国史』(天児慧、岩波新書)、『文化大革 命』(矢吹晋、講談社新書)、『現代中国政治』(毛里和子、名古屋大学出版社)、『岩波現代中国事典』、『中国文化大革命事典』(中国書店)

 

年月 出来事 内容・影響
1956年 スターリン批判と「双百」の提起  
1、14-20 中共主催の全国知識分子会議 「技術革命」、「文化革命」を提起
ソ連共産党第二十回大会 フルシチョフ、スターリン批判秘密報告
4、5 中共中央、「プロレタリア独裁の歴史的経験について」 フルシチョフのスターリン批判秘密報告を肯定する
4、25 毛、「十大関係論」 ソ連の社会主義とは異なる政治・経済建設構想を示し、「向ソ一辺倒」からの離脱を開始する
5、26 文化部部長陸定一、百花斉放・百家争鳴を提起  
ポーランドで暴動(ポズナミ事件)  
9,15-27 第八回党大会 経済建設を党の中心任務として提起、集団指導体制を強調ソ連方式に歩調を合わせる
10 ブタペストで暴動(ハンガリー事件) 事件後、世界的な反共ブームが起こる
1957年 ハンガリー事件の余波と反右派闘争  
2、27 毛、「人民内部の矛盾を正しく処理する問題について」(講話) 党に対する党外からの積極的な批判を歓迎すると表明するとともに、反修正主義の問題を提起
5、1 人民日報、「整風運動についての指示」 共産党の整風運動への参加を大衆に呼びかける
6、8 毛、「力を結集して右派分子の狂暴な攻撃に反撃する」(党内指示) ハンガリー事件が中国でも起こりうることを指摘
6、8 人民日報、「これはどうしたことか」 反右派闘争はじまる
6、19 人民日報、加筆修正された「人民内部の矛盾を…」を発表 新たに六カ条政治基準を加筆し、発言の枠を定める
7 青島会議 毛、反右派闘争を社会主義革命と規定
9、20-10、9 八期三中全会 毛、「階級闘争は消滅しておらず……、ブルジョアジーとプロレタリアートの矛盾が主要な矛盾というべきである」と発言
11 毛、ソ連での「十月革命四十周年」に参加 フルシチョフの平和的移行論に反対する意向を打ち出す
1958年 大躍進とフルシチョフの訪中  
1-4頃 毛、ソ連から帰国後、全国視察を行う 大躍進運動の構想、個人崇拝の必要を強調。「反冒進と右派は五十歩百歩だ」「イギリスを追い越す」といったラディカルな講話を続ける
1 南寧中央工作会議で、毛、反冒進を批判 劉少奇、周恩来、陳雲ら自己批判
3、6-26 成都中央工作会議 毛、個人崇拝を容認する発言を行う
  反右派闘争が継続される 地方の指導者で積極性を欠くと見られた人物が大幅に失脚に追い込まれる(一級行政区政府のトップは半数近くが交代)
第八回党大会第二回会議 階級闘争終了の認識を否定。「社会主義建設の総路線」が採択され、大躍進政策が開始
7、31-8、3 フルシチョフ訪中 フルシチョフ、大躍進・人民公社建設を批判し毛の反発を買う
8、27-30 政治局拡大会議(北戴河会議) 人民公社設置、鉄鋼増産運動が始まる
8,23-10,25 中国、台湾の金門・馬祖島に砲撃、米は第七艦隊を派遣 米中間の緊張が高まる
11、28-12、10 武昌で八期六中全会 人民公社の行き過ぎを是正、毛、次期国家主席を辞退
1959年 廬山会議と米ソ共同宣言  
3 チベットで武装叛乱 ダライ・ラマがインドへ亡命
第二期全人代第一回会議 劉少奇を国家主席に選出
6 彭徳懐、訪ソ フルシチョフらと会談
7、2-8、1 廬山で政治局拡大会議 彭徳懐国防部長が大躍進を批判
8、2-16 八期八中全会 「当面の主な危険は一部の幹部に成長しつつある右翼日和見主義の思想である」とのコミュニケが出され、反右傾闘争が始まる
8、16 「彭徳懐反党グループについての決議」 彭徳懐は国防部長を解任され、林彪が新国防部長に就任(9月)
8、25 インドがダライ・ラマの亡命政府を承認したことから、中印国境で軍事衝突 中印の対立に対しソ連は中立の立場を取ったため、中国の対ソ不信はいっそう強まる
9、27 アイゼンハワー、フルシチョフ、米ソ共同宣言を発表し、平和共存を提唱、その後フルシチョフは二度目の訪中 中ソ、共同声明出せず
930 『人民日報』、「党の総路線と毛沢東軍事思想の赤旗を高く掲げて勇往邁進しよう」 林彪、毛沢東軍事思想の称揚を開始
秋頃 深刻な食糧難発生 大躍進の失敗、明らかに
1960年 公然化する中ソ論争  
4、16 『紅旗』、「レーニン主義万歳」で平和共存を批判 中ソ論争公然化
6、24-26 ルーマニアで社会主義諸国共産党・労働者党代表会議 フルシチョフ、中共を「トロツキー方式」だと批判
7、16 ソ連、技術者の引き揚げを通告 これ以後、両国の国境地域で紛争が頻発
9、14-10、20 中央軍事委員会拡大会議 林彪、「四つの第一」を提唱、軍内で毛沢東思想学習の運動展開
11 劉少奇率いる党政府代表団が、訪ソ 両国間の決裂が決定的になる
11、3 中共中央、「農業十二条」 自留地や家庭副業を許容
1961年 劉少奇による経済の調整   
1、14-18 八期九中全会 劉少奇、ケ小平が経済調整政策に着手
1  呉ヨ、『北京文芸』に「海瑞罷官」発表  
ケ拓、『北京晩報』に「燕山夜話」連載開始  
5、12 中共中央、「農村人民公社工作条例草案(農業六十条) 「三自一包」政策、報奨金、生産請負制を認める
10 ケ拓・呉ヨ・  、『前線』に「三家村札記」連載開始  
10、25 ソ共第二十二回党大会 周恩来、途中で帰国
1962年 七千人大会から毛沢東の反撃へ   
11-2、7 中央拡大工作会議(七千人大会) 毛・劉少奇ら大躍進政策を自己批判 
3 周恩来、「知識分子の問題について」 党外の知識分子との協力関係と統一戦線の必要性を主張
4、-5、 全国統一戦線工作会議 反右派闘争以後、冷却化していた党と党外知識分子の協力関係の改善を提起
8 邵栓麟、中間人物論を提起  

北戴河中央工作会議 毛、修正主義は国際資本主義に貢献するものであり、実質的には反革命である、と非難
9、24-27 八期十中全会  毛、社会主義段階における階級闘争、継続革命論を打ち出し、全国の都市、農村で社会主義教育運動を行うことを提起
10、20-11、22 中印国境で大規模紛争 ソ連、公然と中国を非難
10、22 キューバ危機 フルシチョフ、アメリカに譲歩する
1963年 中ソ論争全面化  
2、9 人民解放軍総政治部、「雷鋒に学ぶ運動に関する通達」 軍内での政治思想強化
2 中央工作会議 毛、「階級闘争はひとたび行えば験が明らかになる」と発言し、農村では社会主義教育運動をすすめ、都市では「五反」を進めることが決定される
3 ソ共、中共へ書簡を送る この後、1964年10月まで、中ソ両党は「国際共産主義運動の総路線」をめぐり空前の大論争を展開
5、20 中共中央、「当面の農村工作の中でのいくつかの問題についての決定草案」(前十条) 社会主義教育運動の具体的プログラムを提示、経済調整の任務は完成したとの観点から、運動における階級闘争と大衆運動の必要性を強調
5 『文匯報』、柯慶施、江青 これ以後、一連の小説、映画、戯劇に対する批判が展開
6、14 中共中央、「共産主義運動の総路線についての提案」 中国、社会主義段階にも階級が存在すると主張、中ソ論争全面化
7、5 ケ小平を団長とする中共代表団が訪ソ、会議を中断して途中帰国 中ソ両党の確執が全世界に公開される
7、25 米英ソ、部分的核実験停止条約仮調印 中国はこの条約を非難
9、1 中共中央、「農村社会主義教育運動中のいくつかの具体的政策についての決定草案」(後十条) ケ小平、彭真らが執筆したとされる。工作隊の役割を強調し、党の指導と生産活動の安定確保を目指す
『人民日報』・『紅旗』編集部「ソ連共産党指導部と我々との意見の相違の由来と発展」を発表 ソ連共産党批判連続論文(九評)発表開始
12 毛、文芸界は「修正主義の瀬戸際まで転落した」と非難 斉燕銘、夏衍、邵栓麟、田漢らの文芸界の代表者が批判される
1964年 フルシチョフの退陣  
1、27 中仏国交樹立  
2、1 『人民日報』、「全国は解放軍に学ぼう」 毛に対する個人崇拝が助長される
5 人民解放軍総政治部『毛沢東語録』を発行  

北京で現代京劇競演大会  

彭真ら文化革命五人小組を組織  
65? 党中央工作会議 毛、戦争に備え「三線建設」を指示
8、2 トンキン湾事件  
10、15 フルシチョフ解任、後任はブルジネフ  
10、16 中国、初の原爆実験  
10 周恩来を団長とする党政府代表団が訪ソ 「毛の退陣」発言を巡り、中ソ関係はさらに緊張を増す(マリノフスキー事件
11、21 中共中央、「フルシチョフはどのように退場したか」 「フルシチョフの失脚は、修正主義反対闘争の偉大な勝利である」
12 毛、「官僚主義者階級」、「資本主義の道を歩む指導者」という概念を提起  
12 第三期全人代第一回会議 周恩来、四つの近代化を提案
1965年 姚文元、「『海瑞罷官』を評す」  
1、10 中国、第二国連を提唱  
1 中共中央、「農村社会主義教育運動の中で提起されたいくつかの問題」(二十三条) 毛、初めて「党内の資本主義の道を歩む実権派」に言及、ケ小平が主管する中央書記処および李富春が主管する国家計画委員会を「二つの独立王国」と批判。階級闘争の重点を共産党内および党の指導機関に移す
2 コスイギンン首相訪中、  
2、7 米軍、北ベトナム爆撃開始  

『解放軍報』、「政治突出」の社説掲載  
5、22 人民解放軍、階級制度廃止  
9 林彪、「人民戦争の勝利万歳」発表  
9 中央工作会議 毛、「もし中央に修正主義が現れたら、君たちはどうするか?」と発言
11、10 『文匯報』、姚文元「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」を発表 北京市委員会を攻撃

林彪、毛沢東思想の「活学活用」を指示  
12、8 『紅旗』誌、戚本禹「革命のために歴史を研究せよ」を発表。 『紅旗』が『文匯報』と歩調を合わせる。
12、8-15 中央政治局常務委員会拡大会議 林彪、総参謀長の羅瑞卿を批判。羅は翌年5月にあらゆる職務を解任
12、21 毛、杭州で陳伯達と会談した際、戚本禹「革命のために歴史を研究せよ」を称賛する。 毛「核心は『免官』だ。1959年に我々は彭徳懐を罷免した。彭徳懐も『海瑞』だ」。

 用語解説

第八回党大会

 
前 回の党大会から十一年ぶりに開かれ、文化大革命期までの中国共産党体制の基礎をつくった党大会。1956年9月15−27日開催。大会では中央委員会副主 席の劉少奇が政治報告を行い、同副主席の周恩来が第二次五カ年計画案を提案し、ケ小平(54年から党秘書長)が党規約改正の報告を行った。毛沢東は開幕の 挨拶だけだった。
 党の主要人事は,中央委員会主席毛沢東,副主席劉少寄,周恩来,朱徳,陳雲,総書記ケ小平,中央政治局常務委員毛沢東,劉少奇,周恩来,朱徳一 陳雲,総書記ケ小平。
 
 大会は建国以来、生産手段の私有制の社会主義的改造が基本的に完成されたという認識のもと、今後の国内の主要矛盾を、「先進的社会主義制度と立ち遅れた 生産力との間の矛盾」だと規定し、階級闘争から経済建設に重点をシフトする穏健な政策方針を打ち出した。また新しい党規約を決議し、個人崇拝反対,官僚主 義批判を提起すると共に,旧規約では党のすべての工作の指針とされた毛沢東思想という用語を削除した.
 こうした集団指導を軸とした党国家体制の確立,生産力の発展の重視,漸進的な社会主義建設は、“八大路線”と呼ばれる。 
 しかし,毛沢東がこれら同大会の成果を受け入れながらも実質的にかなり不満であったことは,57年の反右派闘争,58年の大躍進政策、そして文革による “八大路線”の否定と継続革命論の提唱,党中枢の破壊など,毛が大会後に続々と打ち出したキャンペーンによって示された。
 なお文革中、この大会での決議は「劉少奇が毛主席に隠れてでっちあげた」、「階級闘争消滅論を宣伝する修正主義の作文」と批判された。
   
反右傾闘争   1959年の廬山会議の後、60年春まで中共中央が全党的範囲で展開した大規模な「右翼日和見主義」に反対する闘争。
 廬山会議で大躍進運動を批判した彭徳懐、張聞天らの解任と関連して、「彭徳懐の右翼日和見反党グループ」に対する認識と「三面紅旗」(過渡期の総路線、 大躍進、人民公社)に対する態度を検討し、「右翼日和見分子」を摘発し、彼らに対する厳しい批判と組織的な処罰を行った。
 重点批判の対象となった党員幹部は全国で365万人、うち解放軍は1万7千人にのぼったといわれる。 

九評   中ソ両党は「国際共産主義運動の総路線」をめぐり、1963年3月から1964年10月(フルシチョフ解任)にかけて空前の大論争を展開した。この論争 中、中共はソ共を批判する一連の論文を発表した。この一連の論文は、1963年9月6日の第一編「ソ連共産党指導部と我々の不一致の由来と発展」から、 1964年7月14日の「フルシチョフのエセ共産主義およびその世界歴史上の教訓について」まで合計九編あるため、「九評」と略称する。
 「九評」は、社会主義社会は依然として階級社会であり、その歴史的発展段階においてはプロレタリア階級とブルジョア階級、社会主義の道と資本主義の道、 マルクス主義と修正主義という二つの路線の激烈な闘争が一貫して存在するという、中共の観点から論じられている。

マリノフスキー事件  1964 年、周恩来を団長とする党政府代表団が訪ソ中、11月7日のレセプションの席で、ソ連国防部長マリノフスキーが賀龍に「我々はフルシチョフを失脚させた。 あたたがたも、我々に見習って毛沢東を退陣させるべきだ」と発言、賀龍はこの発言を直ちに周恩来に伝えた。周恩来はソ連側に厳重抗議を行い、ブレジネフは 遺憾の意を表したが、この事件はその他の事柄にも波及して、中ソ関係の緊張を増大させた。この後、ソ連は中ソ国境に百万という大兵員を配置し、さらにモン ゴル人民共和国にも軍を進駐させた。