| 1971年から1978年までの略年表(林彪事件から十一期三中全会まで) | 02年1月14日作成 |
年表の作成にあたり、以下の資料を参考にさせていただきました。
『「文化大革命」簡史』(中央公論社)、『原典中国現代史 政治(上下)、思想・文学巻』(岩波書店)、『中華人民共和国史』(天児慧、岩波新書)、
『文化大革命』(矢吹晋、講談社新書)、『現代中国政治』(毛里和子、名古屋大学出版社)、『岩波現代中国事典』、『中国文化大革命事典』(中国書店)な
ど。
なお、ところどころ未整理の箇所(特に76年以降)があります。ご了承ください。
| 年月 | 出来事 | 内容・影響 |
|---|---|---|
| 1971年 | 林彪事件 | |
| 4、11 | アメリカ卓球チーム | |
| 4、15-7、31 | 北京で全国教育工作会議が開催される。「全国教育工作会議紀要」を採択。 | |
| 4、29 | 党中央、「批陳整風運動をさらに深く推し進め発展させることについての通知」を発布。 | |
| 7、17 | 『人民日報』、周恩来とキッシンジャー | |
| 8、14-9、12 | 毛、南方を視察。各地の責任者と会談し、林彪らを名指しで批判。 | |
| 9、13 | 9・13事件(林彪事件) | 林彪・葉群・林立果らが乗っていたとされる飛行機が国外に逃亡し、モンゴルのウンデルハンに墜落、乗員は全員死亡。 |
| 9、18 | 中共中央、「国家に対する林彪の反逆と出国逃亡に関する通知」 | 林彪事件について全国の省・市・自治区クラス以上の幹部に伝達。 |
| 10、3 | 中共中央、葉剣英に軍事委員会の日常業務を担当させることを通達 | 軍事委員会事務組を廃止。 |
| 10、24 | 中共中央、林彪事件を全国に通達 | |
| 10、25 | 中華人民共和国、国連で議席を回復 | 蒋介石政権は国連から脱退。 |
| 11、14 | 毛、「二度と彼(葉剣英)を『二月逆流』だと言ってはいけない」 | 「二月逆流」で失脚した幹部の復活に根据を与える |
| 12〜 | 中共中央、「林・陳反党グループの反革命クーデターを粉砕する闘争」を全国に通達。これ以後、「批林整風」運動が全国で展開 | 林彪は資本家、地主の代表と見なされ、林彪批判は「第十回目の路線闘争」だと位置づけられる |
| 1972年 | ニクソン訪中と古参幹部の復帰 | |
| 1、10 | 毛、陳毅の追悼会に出席 | |
| 2、21 | ニクソン訪中、27日、「共同コミュニケ(上海コミュニケ)」を発表 | 中国は72年末までに41カ国と国交回復 |
| 3、26 | 謝富治、北京で病死 | |
| 4、24 | 『人民日報』、周恩来の意見に基づいて、「過去の誤りを戒めとして、病を治して人を救う」を発表 | 社説の発表後、大量の古参幹部、専門家、教授が職務に復帰 |
| 5、1 | 中共中央、「大学高等教育機関の学生募集業務の「裏口利用(走後門)」現象の徹底防止に関する通知」を通達 | |
| 5、10−6、20 | 中共中央、北京で批林整風報告会を開催、周恩来が講話で、「毛沢東が江青に宛てた手紙」と、いわゆる「伍豪事件」の真相を紹介。 | |
| 8、1 | 陳雲・王震などの指導者が自由の身となり、建軍記念日慶祝レセプションに出席 | |
| 8、3 | ケ小平が毛に手紙を書き、林彪を批判し、自分に仕事を与えてくれるよう要請 | →14日、毛がケ小平の手紙に批示を書き、ケについては「劉少奇とは区別するべきだ」と指摘。 |
| 8月 | 江青はロクサーヌ・ウィトケと何度も会見し、ウィトケはこれをもとにして『紅都女皇』(原名『江青同志』)を執筆。 | |
| 8−9月 | 周恩来は二度の講話の中で、林彪の極左路線を批判する考えを提起 | |
| 9、25 | 田中角栄訪中 | →27日、中日国交回復 |
| 10、6 | 周培源・北大副学長が周恩来の指示を受け、『光明日報』に「総合大学の自然科学系教育革命についての若干の見解」を発表、自然科学基礎理論の学習の必要性を強調 | 張春橋、この論文を『文匯報』で批判。「周培源には後ろ盾がいる。」 |
| 10、14 | 『人民日報』、極左思想と無政府主義を批判する三本の論文を発表 | 張春橋、姚文元はこの三本の論文を「大毒草」と呼び、人民日報社内部で「右傾復活」批判を展開するよう命令 |
| 11、28 | 党中央対外連絡部・外交部は、林彪反党集団を極左思想として批判することを提起 | 江青らは、林彪を極右として批判するよう主張 |
| 12、17 | 毛、「林彪は極右である」、「極左思想はあまり批判してはならない」と述べる | この発言以降、極左批判はタブーとされる。 |
| 1973年 | 第十回党大会 | |
| 1、1 | 『人民日報』、『解放軍報』、雑誌『紅旗』、元旦社説で林彪一味の反革命の目的は資本主義の復活であったと強調? | この社説以後、林彪の極右批判だけが許され、極左批判はタブーとされる 嘘? |
| 3、8 | 周恩来、国際婦人デーの記念会で、文革中に迫害にあった外国の専門家に対し遺憾の意を表明。 | |
| 3、10 | 中共中央、「ケ小平同志の党での組織生活と国務院副総理の職務への復帰に関する決定」を通達 | →ケ小平、国務院副総理に復帰、十全大会で中共中央委員に選出 |
| 3月 | 毛、批林には批孔が必要だと提起し、また、詩の中で郭沫若の孔子崇拝を批判する | |
| 4 | 国務院、学生募集の文件、実録p4893 | |
| 4、12 | シアヌーク前カンボジア国家元首の招待宴会で、ケ小平が復帰後初めて公式の場に登場 | |
| 4、20ー31 | 北京で中共中央の工作会議が開催され、一群の古参幹部を解放すると宣言、また王洪文・華国鋒・呉徳が党中央政治局の工作に参加することを決定。 | |
| 4、25 | 毛、福建省の小学校教師李慶霖の手紙に返事を書き、同時に300元を送金。 | →6月10日、中共中央は毛の手紙を全国に通達し、知識青年の上山下郷に伴う問題の解決に着手する。 |
| 5月 | 『紅旗』誌、「私は辺境の地の一木一草を心からいとおしむ」という文章を発表し、知識青年の朱克家が雲南で辺境に深く根を下ろした「反潮流」の事跡を紹介。 | |
| 6、27 | 中国、初の水爆実験に成功 | |
| 6月−7月 | 全国知識青年上山下郷会議 | 知識青年の生活レベルの向上を指示 |
| 7月1日 | ★成都で「文化大革命の十大罪状」事件が発生 | |
| 7、10 | 党中央特別事項調査班、「林彪反党グループの反革命罪に関する審査報告」を提出。 | |
| 河南省唐振扶中学で、生徒の張玉勤が試験に通らなかったため叱責を受けたのち自殺した事件が発生。 | →江青は謝静宜らを派遣し、「唐振扶中学修正主義復活事件」として政治問題化させる。 | |
| 7、19 | 『遼寧日報』、「深く考えさせられる一枚の答案」 | →張鉄生が、“反潮流の英雄”として宣伝される |
| 7、28 | 江青・張春橋、映画『園丁之歌』に対して「文化大革命を否定するもの」として批判 | →この後批判論文が組織的に発表される |
| 8、5 | 毛、自作の詩「『封建論』を読みて――郭沫若に呈す」を江青に朗読させ、郭が秦の始皇帝を否定していると批判 | |
| 8、7 | 『人民日報』、中山大学教授楊栄国の「孔子――頑固に封建奴隷制を擁護した思想家」を発表 | |
| 8、20 | 中共中央、「林彪反党集団の反革命罪行に関する審査報告」を批准 | 林彪、陳伯達らの党籍を永遠に剥奪。 |
| 8、24−28 | 第十回党大会 | 九大路線を継承。周恩来の政治報告(張春橋が起草)、王洪文の党規約改正報告 |
| 8、30 | 十期一中全会 | 中央委員会主席に毛沢東、副主席に周恩来、王洪文、康生、葉剣英、李徳生。張春橋が中央政治局常務委員に、江青、姚文元が政治局委員に選出され、党内で“四人組”を結成する。 |
| 9、8−11 | 国務院生産組、「教育戦線批判孔子問題座談会」を開催。 | 中山大学教授楊栄国、「儒法両家的闘争和孔子反動思想的影響」と題する報告を行う。遅群が批孔が批林整風運動の重要な要素であることを提起する。 |
| 10月−翌年1月 | 江青らの指示で、遅群・謝静宜が北京大学・精華大学で「右傾の逆流[右傾回潮]に反撃する運動」を開始 | |
| 10、4? 7月? |
毛、王洪文と張春橋との談話で、外交部を批判 | 「大事は討論せず、小事は一日送り。現状は変更せず、勢い修正[主義]をやる」 「林彪の思想の源泉は儒家にあり、林彪は国民党と同じで、どちらも“尊孔反法” |
| 11月 | 毛の意見に基づき、中共中央政治局は周恩来を批判する会議を開く。 | 江青が周恩来は「待ちきれなくて毛主席に取って代わろうとしており」、これは「十一回目の路線闘争」であると述べる。 |
| 中央五七芸術大学を設立、江青が名誉学長に就任 | ||
| 12、12 | 毛、中央政治局会議での講話の中で、周恩来・葉剣英の主管部門について、「政治局は政治を議せず、軍事委員会は軍事を議せず」と批判。 | 毛、ケ小平の中央政治局・軍事委員会入りと、総参謀長就任を提議。 |
| 12、12 | 『北京日報』、北京の小学生黄師の手紙と日記の要約を掲載。28日『人民日報』が転載。 | この後、江青らの手配により、全国の教育界に「師道の尊厳」批判と、「反潮流」の運動が巻き起こされ、林彪事件後、落ち着きを取り戻し始めていた教育界は再び大混乱に陥る。 |
| 12、21 | 新華社、68年12月22日から現在までの5年間で800万の知識青年が上山下郷したことを報道 | |
| 毛、賀龍・羅瑞卿らを誤って罪に落としてしまったと自己批判する。また朱徳を「紅い司令」であると指摘。 | ||
| 12、30 | 毛のある講話の主旨に基づき、国務院科学教育組と北京市委員会は、突然北京の17の大学の教授・助教授613人に対して、数学・物理・化学のテストを実施、結果はわずか53人が合格。いわゆる「教授テスト事件」 | |
| 1974年 | 批林批孔 | |
| 1、1 | 『人民日報』など三紙誌が「元旦祝辞」で、「批林批孔」を呼びかける | |
| 1、4 | 『人民日報』、「孔子が少正○を殺したことは何を説明しているのか」 | 孔子を「儒者宰相」と呼び暗に周恩来を攻撃 |
| 1、14日 | 上海港湾局の労働者が「出来高のみに縛られる奴隷にはならない」との大字報を貼りだす。 | →2月1日、『人民日報』がこれを転載。この後全国に「誤った路線のためには生産をしない」という風潮が高まる。 |
| 1、18 | 党中央、北京大学、清華大学の「大批判組」によって編集された「林彪と孔孟の道」(材料の一)を中央文件として全党に配布 | 「批林整風」運動が「批林批孔」運動へと変わる |
| 『人民日報』、南京大学の労農兵出身学生の鐘志民が「裏口利用」に反対し退学を申し出た報告文を発表 | ||
| 1、19 | 西沙海戦 | 中国海軍が西沙群島に入り込んできた南ベトナム軍に対し、「反撃戦」を展開 |
| 1、23−2、20 | 北京で華北地区文学芸術選抜公演を挙行される。 | 公演期間中、江青・于会泳らは普劇「三上桃峰」を、「劉少奇、王光美の名誉回復を図る」ものだと批判(『三上桃峰』事件)。 |
| 1、24−25 | 江青、首都体育館で「批林批孔」動員大会を開催 | 大会に参加した周恩来、葉剣英らを批判。 |
| 1、30 | 『人民日報』、「悪辣な下心、卑劣な手段」を発表し、イタリアの監督アントニオーニによる映画『中国』を批判 | |
| 2、10日 | カタツムリ事件 | 江青、周恩来と対外貿易部門を「外国にかぶれ、外国に媚びる」ものとして批判。 |
| 2、11日 | 『人民日報』、北京の小学生黄師が「王亜卓」に宛てた手紙を発表。 | →王亜卓批判事件 |
| 2、20日 | 中共中央、「指導幹部の「裏口利用」による子女の入隊・入学に関する通知」を発行。 | |
| 2、14−4、5 | 江青・于会泳らが「黒い絵画」展覧会を開催し、周恩来が指図して創作させた輸出用の中国画を批判 | |
| 2、22 | 毛、ザンビア大統領との談話の中で“三つの世界観”を提起 | |
| 2、25 | 毛、葉剣英への手紙の中で、江青らによる批林批孔のやり方を批判 | |
| 3、1 | 張春橋、『解放軍報』の文章を批判し、中央政治局を通して『解放軍報』の停刊事件を引き起こす。 | |
| 3、5 | 江青・張春橋が陳亜丁らを呼んで会見し、軍の総参謀部の攪乱を狙って、「放火焼荒事件」を引き起こすよう指示 | |
| 3、12 | 江青、北京の中学教師からの手紙に批示をし、北京「永楽中学事件」を引き起こす | |
| 3、15 | 『光明日報』、張永枚の詩ルポ「西沙の戦い」を発表 | |
| 3月 | 江青の御用執筆グループの「梁効」が正式に成立。 | 4月1日、『紅旗』誌に「孔丘という人物」を発表 |
| 4、10 | 中共中央が通知を出し、批林批孔による社会混乱の拡大を阻止するため、運動は大衆組織を結成する必要はなく、党委員会の統一指導下で実施することを規定 | |
| ケ小平、国連第六期特別会議で演説 | 「中国は社会主義国家であり、また発展途上国でもある。中国は第三世界に属す」 | |
| 6、1 | 『人民日報』、江青の指図によって創作された北京西四北小学校の「革命童謡」を報道する。 | |
| 6、19 | 江青、天津儒法闘争史報告会を開催 | 江青、「今回の運動の重点は党内の大儒を批判することである」 |
| 7、1 | 中共中央、「革命に力を入れ、生産を促すことに関する通知」を発表 | 批林批孔による生産停滞の打開を図る |
| 7、17 | 毛、中央政治局会議で江青、張春橋、姚文元らを批判 | 毛「四人の小セクトを作ってはならない」【四人小宗派】 |
| 8、13 | 北京で四省・市の文芸選抜公演を挙行 | |
| 9、29 | 中共中央、賀龍の名誉回復を通知 | |
| 10、4 | 毛、ケ小平を国務院第一副総理に任命するよう提案 | |
| 10、11 | 党中央、近く第四期全国人民代表大会を開催することを通知 | 毛、「現在は安定が必要だ。全党、全軍は団結すべきである」 |
| 10、12 | 『文匯報』、『解放日報』、「★ | 風慶号事件 |
| 10、17 | 江青ら政治局会議で、「風慶号事件」についてケ小平に問いただす。 | |
| 10、18 | 王洪文、長沙の毛を訪れ、ケ小平を批判 | 毛は逆に王洪文を叱責する |
| 10月 | 吉林で「44号重大反革命事件」が発生し、労働者の史雲峰が劉少奇の名誉回復を呼びかける | |
| 11 | ★広州に「李一哲」の壁新聞が登場する | 文革中の専制政治を糾弾し、「林彪体制と切っても切れぬ関係だったあの人たち」といった言葉で江青らを批判 |
| 11、29 | 彭徳懐、拘禁中に無実の罪のまま死去 | |
| 12、2 | 『人民日報』、朝陽農学院の「人民公社から来て人民公社に戻る」経験を紹介した調査報告を発表 | |
| 12、12 | 毛遠新、遼寧省彰武県ハルタオ公社を訪問し、「ハルタオの大定期市」という「新生事物」を宣伝する。 | |
| 12、23 | 毛、周恩来、王洪文と会見 | 毛、ケ小平を高く評価、「得難い人材であり、政治思想は強固」 |
| 1975年 | ケ小平による整頓 | |
| 1、5 | 中共中央、ケ小平を軍事委員会副主席兼人民解放軍総参謀長に任命すると同時に、張春橋を総政治部主任に任命(前任は李徳生) | |
| 1、8−10 | 十期二中全会 | ケ小平を中共中央副主席、中央政治局常務委員に選出(前任は李徳生) |
| 1、13−17 | 第四期全国人民代表大会 | 周恩来の「政治工作報告」、張春橋の「憲法改正に関する報告」 周恩来、四つの近代化を提唱、ケ小平、国務院副総理に選出される |
| 1、25 | ケ小平、総参謀部機関団以上の幹部会の演説で「軍隊は整頓しなければならない」という講話を行う。 | |
| 2 | 映画『海霞』をめぐる論争がはじまる | らが一致して肯定した映画『海霞』の放映を、于会泳らが拒否。江青らは『海霞』を文化部の「右からの巻き返し」の「典型事件」として、矛先を周恩来、ケ小平らにむけた |
| 2、1 | 『紅旗』誌が「池恒」の「真剣にプロレタリア独裁の理論を学習しよう」を発表 | |
| 2、5 | 党中央、中央軍事委員会事務会議(71年10月設立)を廃止し、党中央軍事委員会常務委員会を設立する旨の通知を出す。 | 葉剣英、王洪文、ケ小平、張春橋など11名が常務委員となり、葉剣英が業務を主宰。 |
| 2、9 | 『人民日報』、「プロレタリア独裁の理論をしっかり学ぼう」 | |
| 2、10 | 党中央、「1975年国民経済計画を回覧審査する通知」 | 経済の向上と生産の促進を呼びかける |
| 2、18 | 党中央、「毛主席の理論問題に関する重要指示」を全国に配布 | |
| 2、22 | 『人民日報』、「マルクス・エンゲルス・レーニンのプロレタリア独裁論」(いわゆる三十三条) | |
| 3、1 | 張春橋、政治部主任座談会で経験主義を批判 | 「物質的刺激、利潤優先、奨励金などは制限すべきである」 |
| 『紅旗』第三期、姚文元「林彪反党集団の社会的基盤について」 | 「今や主要な危険は経験主義である」 | |
| 3、5 | 党中央、「鉄道工作を強化することに関する決定」(九号文件) | |
| 4、1 | 『人民日報』、張春橋「ブルジョア階級に対する全面独裁について」 | |
| 4、4 | もと遼寧省委員会宣伝部女性幹部の張志新が投獄のすえ殺される。 | |
| 4、27 | 江青、政治局会議で自己批判 | ★ |
| 4月 | ★于会泳らが「陶鈍事件」をでっちあげる | |
| 5、3 | 毛、中央政治局委員を集めた談話で江青らを批判 | 毛「四人組をやってはならない」 |
| 5、29 | ケ小平、鋼鉄工業座談会で演説 | |
| 5 | ケ小平、文芸の整頓について毛に相談 | 毛「模範劇は数が少ないし、少しでも問題があるとすぐに批判される。あの連中以外は意見を言うこともできない」 |
| 6、2 | 中共中央、江蘇省委員会の「徐海の経験」を批准通達★ | |
| 6、4 | 中共中央、「今年の鉄鋼生産計画を努力して達成することに関する指示」 | |
| 6、24−7、15 | 中央軍事委員会拡大会議が開かれ、葉剣英・ケ小平が講話をし、軍隊の整頓を提起。 | →7月17日、中共中央が二人の講話を通達する。 |
| 7、14 | 毛、文芸政策に対する調整の必要性を述べる | 毛、「詩歌も小説も、散文も文芸評論も数が足りない。作家に対しては、過去の誤りを今後の戒めとして立派に成長するよう指導し、潜伏したり、重大な反革命行為をする反革命分子以外の者には手を差し伸べるべきだ」 |
| 7、18 | 『創業』のシナリオライター張天民が毛に手紙 | →7月24日、毛「この映画に大きな誤りはない。十以上の罪名をつけるのはやりすぎだ」 |
| 7月−8月 | 毛沢東の江青に対する批判が世間の噂となる。翌年になって「7・8・9月の政治的デマ」として追跡調査が行われる。 | |
| 8、8 | 中央五七芸術大学の教師の李春光が大字報を貼りだし、江青らの専制主義を批判 | |
| 8、13 | 清華大学党委員会副書記の劉冰が毛沢東の上申書を送り、遅群・謝静宜の問題を告発。 | 10月13日、再び書面で告発する。 |
| 8、14 | 北京大学教授・蘆荻が、『水滸伝』に関する毛沢東の発言を文章にまとめ、姚文元に渡す。 | |
| 8、26 | 『紅旗』誌、「『水滸』についての評論を重視しよう」という短文を掲載し、「投降派」の摘発を提起する | |
| 8月−10月 | ||
| 9、2 | 国務院、「工業発展を速めることに関する若干の問題について」(「工業二十条」)草稿 | 江青らの妨害により正式文書としては伝達されず |
| 9、4 | 『人民日報』、毛の『水滸』についての評論を公布し、あわせて「『水滸』についての評論を展開しよう」という社説を発表。 | この後、毛沢東の批評を論点として『水滸伝』批判が新聞や雑誌に相次いで登場し、全国で「『水滸』を論評し、投降派に反対する」運動が展開する。 |
| 9、26 | 胡耀邦、「科学技術工作に関するいくつかの問題」(報告要綱)を作成しケ小平に報告 | ケ「科学研究も生産力と見なさなければならない」 |
| 9、15−10、19 | 「農業は大寨に学ぶ」全国会議 | |
| 9、23−10、21 | 農村工作座談会 | 陳永貴が提起した、人民公社の計算単位を生産隊から大隊へ移すことに関して、集中的に討論される。 |
| 10月初め | 新華社の朱○之・○青・李琴が毛に書状を送り、江青が大寨で話した講話の問題点を告発 | |
| 10、1 | 造反で名を挙げた舒竜山が毛に対し、張愛○を「右からの巻き返し」を狙っていると攻撃した書簡を送る。 | |
| 10、21 | 『人民日報』、「大寨型の県を広めよう」と題する社説を発表。 | 「社会主義の道を歩むのか、それとも資本主義の道を歩むのかが、終始社会主義の歴史段階での農村の主要矛盾である」 |
| 10、25 | 清華大学幹部の林○万が毛に書簡を送り、周栄○を攻撃して、遅群の歓心を買う。 | |
| 10月 | 国務院政治研究室、「全党、全国の各項の工作の総綱について」を起草 | 「右からの巻き返しへの反撃」により発表されず |
| 9月末−11月初め | 毛、ケ小平を代表とする一部の古参幹部を批判 | 「一 部の同志、特に古参同志の思想はまだブルジョア階級の民主主義革命の段階で停滞しており、社会主義革命を理解せず、不満を感じ、さらには反対している。文 革に対しては二つの態度が見られる。一つは文革に対して不満を持つもの、もう一つは文革のツケを返そうとするものである」 |
| 11、2 | 毛は毛遠新の報告を聞いたのち、劉冰の8月13日付と10月13日付の手紙は「矛先を私に向けたものである」と述べ、中央政治局に会議を開いてケ小平を批判するよう要求。 | ケ小平は会議で毛遠新の批判に対し反駁するが、その後大部分の工作を停止され、もっぱら渉外関係を管轄 |
| 11、3 | 清華大学党委、常務委員会拡大会議で、遅群に対する毛の支持を伝達 | これにより、「右からの巻き返しの風に反撃する」運動が開始される。 |
| 12、1 | 『紅旗』誌、「教育革命の方向の改竄は許されない」を掲載 | 「教育戦線上のこの論争」は「現在の社会における二つの階級、道、路線の闘争の構成要素である」 |
| 12、16 | 康生が北京で病死 | |
| 1976年 | 毛沢東死去と四人組の打倒 | |
| 1、1 | 三紙誌は共同社説「世の中に難事はなく、ただ敢えて登攀を要するのみ」を発表し、「安定団結とは階級闘争が不要ということではない」という毛の指示を伝える。 | |
| 1、8 | 周恩来、死去 | |
| 1、12 | ★張春橋のそそのかしで「更新号事件」が引き起こされる | |
| 1、15 | 周恩来の追悼会を北京で開催。王洪文が主宰し、ケ小平が弔辞を読む | |
| 1、21-28 | 毛の提案で、華国鋒が国務院代理総理に就任し、かつ党中央の日常工作を主宰することが確定する。 | |
| 1月 | 浙江省杭州の労働者の李君旭が書いた「周恩来の遺言」が世間に流布しはじめる。 | |
| 2、2 | 中共中央は通知を出し、華国鋒の代理総理就任と、陳錫聯が葉剣英に代わって中央軍事委員会の工作を主宰することを宣布。 | |
| 2、3 | ★張春橋が「1976年2月3日の所感」を書く。 | |
| 2、16 | 中共中央は中央軍事委員会に報告を批准して下部に通達し、ケ小平・葉剣英の1975年7月の軍事委員会拡大会議における講話に誤りがあったとして、二人の講話の内容の実行を中止 | |
| 2、25 | 党中央は各省・市・自治区と各大軍区の責任者の会議を開き、毛遠新が整理した「毛沢東主席の重要指示」(1975年10月から76年1月までの毛の「ケ批判と、右からの巻き返しの風への反撃」に関する講話)を伝達。華国鋒が講話を行い、「ケ批判」を深めるよう全党に要求。 | |
| 3、3 | 中共中央は通知を出し、「毛主席の重要指示」と華国鋒の2月25日の講話を通達。 | 党内 正式に「ケ批判」が開始される。 |
| 3、10 | 『人民日報』は社説「巻き返しは人心を得ない」を発表し、毛のケ小平に対する批判を伝える。 | |
| 3、16ー23 | 文化部が創作座談会を開催する。江青は于会泳に指示して「走資派との闘争を描いた作品が登場する」よう手配させる。 | |
| 3、24ー30 | 南京で、周恩来を追悼し四人組に反対する大衆運動が勃発 | |
| 3、29 | 安徽省蕪湖で、四人組に反対し、ケ小平を擁護しよう、という大スローガンが貼りだされる。 | |
| 3月下旬−4月初旬 | 天安門広場に数十万人が集まり、周恩来を追悼し、四人組を糾弾 | |
| 4、4 | 中央政治局は同夜の会議で「天安門事件」につき討論、これを反革命事件と断定。 | |
| 4、5 | 早朝、天安門広場の花輪が撤去される。当日、憤慨した民衆が指導部の自動車と建物を焼き討ちする。その夜、広場にいた民衆は民兵・警察・軍隊の鎮圧される。 | |
| 4、7 | 北京市革命委員会は「緊急通知」を出し、「天安門事件」は「解放以前にもなかった最大の反革命事件」であると指摘。 | |
| 毛は毛遠新の報告を聴取したのち、ケ小平をすべての職務から解任して、党籍保留のまま、その後の態度を見ることを提起する。 | ||
| 中央政治局は「華国鋒同志の中共中央第一副主席・国務院総理就任に関する決議」と「ケ小平の党内外のすべての職務の解任に関する決議」を可決し、全国に正式に放送する。 | ||
| 4、8 | 『人民日報』が現場ルポ「天安門広場の反革命政治事件」を発表 | |
| 4、12 | 教育部長の周栄○が批判闘争中に死去 | |
| 5、16 | 三紙誌が「文化大革命は永久に光芒を放つ――中共中央の『5・16通知』十周年を記念して」と題する文章を発表 | |
| 6、9 | 四人組が上海で「銅製プレート事件」を引き起こす | |
| 中旬 | 四人組が上海で「対外貿易関係倉庫調査事件」を引き起こす | |
| 7、6 | 朱徳が死去 | |
| 7、28 | 河北省唐山・豊南地区でマグニチュード7.8の大地震が発生。死亡24万2千人、重傷16万4千人 | |
| 8月 | 全国で「三株の大毒草」批判が展開される。 | |
| 9、9 | 毛沢東が死去 | |
| 9、16 | 三紙誌は社説「毛主席は永遠に我々の心の中に生きる」を発表し、いわゆる「臨終での遺言」と「既定方針どおりに行う」の言葉を公表 | |
| 9、18 | 天安門広場で100万人の毛沢東追悼大会が挙行され、王洪文が主宰し、華国鋒が弔辞を読む | |
| 10、2 | 華国鋒が○冠華の発言原稿の「既定方針通りに行う」を削除し、誤りがあると指摘。 | |
| 10、4 | 『光明日報』が梁効の文章「永遠に毛主席の既定方針通りに行う」を発表し、暗に華国鋒を攻撃。 | 「修正主義の頭目が厚かましくも毛主席の既定方針を改竄している」 |
| 10、6 | 華国鋒・葉剣英らが、江青、張春橋、王洪文、姚文元を逮捕、彼らに対する隔離審査を実施。 | |
| 10、7 | 中央政治局が、華国鋒の中共中央主席・中央軍事委員会主席就任を全会一致で決議 | |
| 10月8−15 | 中央政治局は事前心得会議(打招呼会議)を開催し、四人組の粉砕を宣言する。 | 同じ頃、上海の四人組グループが武装暴動を画策したが、制圧される。 |
| 10、18 | 中共中央が、全党に向けて四人組に対する隔離審査の決定を通知 | |
| 10、21−30 | 全国各地で四人組打倒を祝賀する集会とデモ行進が挙行される。 | |
| 10、25 | 三紙誌が社説「偉大な歴史的勝利」を発表し、四人組打倒のニュースを公開 | |
| 12、10 | 中共中央が通知を出し「王洪文・張春橋・江青・姚文元反党集団の罪証」(資料の一)を通達。 | 翌年3月6日に「資料の二」、9月23日に「資料の三」を通達 |
| 1977年 | ||
| 1月 | 李冬民らがケ小平の職務復帰を要求する大字報を貼りだしたが、華国鋒・呉徳に「反革命事件」と断定される。 | |
| 2、7 | 三紙誌が社説「文献をよく学びかなめをつかもう」を発表し、初めて公に「二つのすべて」を提起 | |
| 3、10−22 | 中央工作会議が開かれ、「天安門事件」の名誉回復を求める主張が否定される | |
| 7、16−21 | 中共第十期三中全会が開催、王洪文・張春橋・江青・姚文元を党から永遠に除名する決定を採択。ケ小平の指導的職務を回復 | |
| 8、12−18 | 中共第十一期全国代表大会が開催、華国鋒が政治報告を行い、文化大革命の終結を宣言 | |
| 12、10 | 中共中央は胡耀邦を中央組織部部長に任命し、全国的範囲で冤罪事件の名誉回復を開始する | |
| 1978年 | ||
| 2、18−23 | 中共第十二期二中全会が開催される | |
| 2、26-3、5 | 第五期全人代第一回会議開催 | 葉剣英を委員長に選出 |
| 4、5 | 中共中央はすべての右派分子のレッテルを取り去ることを批准 | |
| 5、11 | 『光明日報』が「実践は真理を検証する唯一の基準である」と題した文章を発表し、真理基準問題に関する大討論を引き起こす | |
| 9、10 | 復刊した雑誌『中国青年』が天安門事件の詩文を掲載したが、汪東興の指示で回収される | |
| 11、14 | 中央政治局常務委員会の批准を経て、北京市委員会が「天安門事件」の冤罪を晴らすことを宣布。 | |
| 12、18−22 | 中共第十一期三中全会が開催され、文化大革命およびそれ以前の誤りの全面的な是正を開始。彭徳懐・陶鋳・薄一波・楊尚昆などに対する |