ホーム このページはフレームページです。フレームが表示されていない場合は、こちらからどうぞ。


 文化大革命関連用語・人名集    02年1月13日作成


 文革に関連する事件、用語、人名集です。現在のところ、文芸関連の用語、人名が中心となっています。まだ数は少ないのですが、これから徐々に増やしていくつもりです。
 作成にあたっては、金春明等編『文革時期怪事・怪語』(求実出版社、1988年)、天児慧等編『岩波現代中国事典』(岩波書店、1999年)、陳東林, 苗棣, 李丹慧主編『中国文化大革命事典』(中国書店、1996年)、北京語言学院《中国文学家辞典》編委会『中国文学家辞典』(四川文芸出版社、1979 年〜)、王慶生主編『中国当代文学辞典』(武漢出版社、1996年2月)、申殿和等編『簡明中国当代文学辞典』(河北人民出版社、1988年)、オンライン中国20世紀文学辞典などを資料とさせていただきました。
 本来であれば、それぞれの項目について、どの資料を参照したのか、あるいは、どの資料から引用したのかを最低限明記すべきなのですが、現在のところ、充分に整理されていません。
 項目の追加とともに、こうした整理も徐々に進めていく予定ですので、どうぞご了承ください。
溝口喜郎 03年4月27日
 
新規登録: 黄バイ佳
 
最終更新日:03年3月20日

登録数:59

 

B


 
白求恩(Bai Qiuen):ベチューン、ノーマン、1890−1939

 カナダ人の外科医師。プロレタリア国際主義の模範とされる。
 1938年カナダ、米国両共産党派遣の医療隊を率いて中共の拠点延安に赴いた。以後、山西、チャハル、河北地区の抗日根拠地で医療活動に従事したが、感染症により死亡。
 毛沢東「ベチューンを記念する」は老三篇の一つとして有名。
 


 
『部隊文芸工作座談会紀要』

 正式名は『林彪同志の委託により江青同志が開催した部隊文芸工作座談会紀要』。これは、林彪、江青が党権を簒奪することを目的に、「文化大革命」を利用し互いに結託し始めた最初の産物である。
 65年、江青は当時解放軍総参謀長を務めていた羅瑞卿に接触し、部隊で文芸座談会を開催したいと伝えたが、彼女は党中央また軍事委員会にも職務がなく、さらに軍事委員会の委託も受けていなかったため、当然、羅瑞卿は彼女の要求を拒否した。
 65年末、林彪の突然の襲撃により、羅瑞卿が打倒された後、江青は林彪に接触した。66年1月21日、江青は上海から、蘇州の林彪のところまでわざわざ 赴き、「プロレタリア階級独裁の精神」でもって、「党内にもぐり込んだあのブルジョア階級の代表人物を攻撃しよう」と話した。林彪の方でも、江青の特殊な 身分を利用すべきだと考えていた。そのため彼らは、「文芸革命」を看板に政治取引をし、たちまち同調した。翌日、林彪は、人員を上海に派遣して座談会に参 加させるよう、総政治部に指令を出し、「彼女の文芸活動分野に対する政治的関心は大変強く、芸術についても専門家である……思想の面でも、組織の面でも、 江青同志の意見を真剣に実行しなければならない」と語った。
 2月4日、江青は上海で、林彪の委託を受けたという名義で、劉志堅、謝どう[金偏に堂]忠、李曼村、陳業丁の四人とともに、いわゆる部隊文芸工作座談会 を開始した。座談会では、江青が自ら長い間たくらんできた「文芸の黒い線独裁」論を系統的に打ち出した。会の後、彼女は、当時軍人でもなく、また座談会に も参加していなかった陳伯達、張春橋に会い、彼らによって『部隊文芸工作座談会紀要』は訂正を受け定稿され、さらに毛沢東による三度の校閲を経て修改され た。3月19日、江青はこれを林彪に送り、林彪はこれについての手紙を中央軍事委員会に提出した。66年4月10日、『紀要』は中共中央の文書として各機 関に送られた。
  『紀要』には、江青を「文芸革命の旗手」とするための、林彪による江青への讃美が述べられている。『紀要』は党の指導の下、建国以来の文芸界が獲得し た巨大な成果を抹殺し、文芸界が「毛主席の思想と対立する反党反社会主義の黒い路線によって独裁されている」と誣告し、文芸作品の中には「反党反社会主義 の毒草がある」と考え、「しっかりと文化戦線上の社会主義大革命をすすめ、この黒い路線を徹底的に叩きつぶさなければならない」と宣言した。さらに、『紀 要』には文化領域での階級闘争に対する毛沢東の深刻な評価と、「文化大革命」を発動する毛の決心が反映されており、また、林彪、江青の結託の始まりでも あった。
  『紀要』の貫徹、執行は災害的な結果をもたらし、中共中央は79年5月3日に、この『紀要』を取り消す通知を発した。

金春明等編『文革時期怪事・怪語』より引用

用語集のトップへ戻る


C


  
陳伯達(Chen Boda):ちんはくたつ

 毛沢東の側近で中共のイデオローグ、文革期に党中央政治局常務委員、中央文化革命小組長。
 上海労働大学で学び、27年中共に入党。同年モスクワ中山大学に留学。29年帰国。31年中国大学教授。37年延安に行き、毛沢東の政治秘書、中央党学 校中国問題研究室主任、マルクス・レーニン学院編集部主任などを務める。この時期、「中国四大家族」「窃国大盗衰世凱」「人民公敵蒋介石」などの政治的著 作を発表。45年党中央候補委員。建国後は中国科学院副院長、マルクス・レーニン学院副院長、党中央宣伝部副部長などを歴任。この間、「毛沢東選集」の編 集に携わり、また「毛沢東思想を論ず、マルクス・レーニン主義と中国革命の結合」などの著作を発表。
 58年「紅旗」総編集となる。56年党中央政治局候補委員。66年2月江青が張春橋と共に作成した「部隊文芸工作座談会紀要」の修正に参加し、「文芸界 の黒い糸」の問題などを盛り込む。4月毛沢東の指示により、文革の綱領的文書「五・一六通知」の起草に参加。5月28日、中央文革小組が成立すると組長に 就任。31日「人民日報」社を改組して権力を奪取。翌日「人民日報」社説として「すべての妖怪変化を一掃せよ」を発表、党・政府関への攻撃・破壊や幹部批 判の潮流を作り出す。8月、江青らと共に各大学に赴いて工作組反対の気運を促す。8月の8期11中全会で党中央政治局常務委員に選出される。
 66年、文革開始と共に攻撃された党中央宣伝部長陸定一に対する「特別審査」を主管し、迫害。67年7月江青、康生と共に劉少奇、ケ小平、陶鋳夫妻に対 する批判闘争大会を画策、家宅捜索を指示する。同年12月河北省唐山で、建国前の巽東亨と党組織を「国共合作の党」であり「裏切り者が活動していた」と非 難する。その結果、8万4000人余りが迫害され、そのうち2956人が死亡する冤罪事件を引き起こす。68年、すでに解決していた「中共中央非常委員 会」ビラ事件を利用して、引き続きその「黒幕」を追及するよう要求、革命幹部に矛先を向ける。年末には「中国(マルクス・レーニン)共産党」事件を捏造し て、朱徳、陳毅ら革命幹部たちを「外国に通じ、クーデターを企てている」と攻撃した。 
 この間、文革の理論的根拠となる「プロレタリア独裁下の継続革命論」を提起・宣伝するなど、活発な理論活動を行なう。69年党中央政治局常務委員に再選され、これより林彪に接近し始める。
 70年8月9期2中全会で、国家主席就任を意図した林彪の演説に積極的に追随。天才論を鼓吹し、「国家主席を設置すべきである」と発言して、毛沢東から 厳しく批判される、9月6日会議の閉幕後、陳は隔離審査を受け、71年「批陳整風(陳伯達批判と整頓)」運動が展開される。73年一切の職務を解かれ、党 から除名。
 81年林彪・四人組裁判で林彪反革命集団の主犯として懲役18年、政治権利剥奪5年の判決を受ける。88年10月刑期満了により釈放、 病没。
 『岩波現代中国事典』、望月暢子

用語集のトップへ戻る


 
陳錫聯(Chen Xilian):ちんしゃくれん

 瀋陽軍区司令員、北京軍区司令員、軍の文革派の代表的人物。半独立的な地方司令官の典型で、文革派とされるが、林彪や四人組とは一線を画した。
 68年中央政治局委員。毛沢東の甥で文革派の毛遠新を支持。73年北京軍区司令員。76年2月、病気療養中とされた葉剣英に代わり、中央軍事委員会の業 務を主催。その後、四人組の逮捕に関与、同年の天安門事件鎮圧の責任者の一人。80年2月、「新四人組」の一人として北京軍区司令員、中央政治局委員、国 務院副総理を解任。82年中央顧問委員。
 

『岩波現代中国事典』(淺野亮)を参照。


 
陳毅(Chen Yi):ちんき

 解放軍元帥の一人(第三野戦軍系)。建国後は外交政策も担当。文革中は紅衛兵の批判に正面から反論した。 56〜69まで党中央政治局委員。58年外交 部長となり周恩来を補佐した。66〜72年中央軍事委副主席。文革中は批判されるが失脚せず、林彪、四人組などと対抗。

『岩波現代中国事典』(小竹一彰)を参照。

用語集のトップへ戻る


 
陳雲(Chen Yun):ちんうん

 中共屈指の経済政策の権威。計画経済の枠内で市場調節を利用する「鳥籠経済論」を採り、改革・開放には慎重な態度に終始した。
 54年国務院副総理、私営企業の社会主義的改造の達成に成果を上げた。56年党中央副主席。大躍進失敗後の経済調整を進めたが、毛沢東に冷遇され、文化大革命中は、党中央委員以外の指導的職務を解任された。
 78〜82年党中央副主席、中央政治局常務委員。計画経済を主とし市場調節を従とする経済政策を提唱し、市場を否定する毛沢東のような左派と、計画経済に否定的な改革派との双方を批判する立場をとった。

『岩波現代中国事典』(小竹一彰)を参照。

用語集のトップへ戻る


 
陳永貴(Chen Yonggui):ちんえいき

 大寨の指導者で全国労働模範、国務院副総理
 59年大寨人民公社党委副書記に任命。山間地区の貧困を改善するため、幹部・大衆を率いて奮闘し、毛沢東の称賛を得て県、地区、省および全国レベルの労働模範とされる。65年毛沢東が「農業は大寨に学ぼう」と呼びかけてから大寨は全国のモデルとされた。
 その後大寨モデルが四人組や華国鋒グループの社会主義建設の目玉とされ、75〜80年国務院副総理に抜擢。しかし83年には北京東郊農場の顧問に降格、北京で病没した。
 80年代に入り大寨モデルは否定されたが、大寨における陳の功績は評価されている。

『岩波現代中国事典』(田原史起)を参照。

用語集のトップへ戻る


 
遅群(Chi Qun):ちぐん

 文革期に台頭した人物。精華大学党委書記。もと中央警護部隊(八三四一部隊)宣伝科副科長。文革中の六八年、毛沢東の命により毛沢東思想宣伝隊に随行し て精華大学に進駐、同大学革命委主任・党委書記となり、江青グループの中堅幹部として活躍。74年謝静宜と共に梁効執筆グループを組織し、周恩来、ケ小平批判などの世論工作を行う。
 76年、四人組と共に失脚。83年反革命宣伝扇動罪、誣告罪などで懲役18年、政治権利剥奪4年の判決を受ける。

『岩波現代中国事典』( )を参照。

用語集のトップへ戻る


D


 
党組

 中国共産党以外の組織の指導機関に設置される党の指導機構。党グループともいう。
 党が、社会のあらゆる機関・団体において自らの指導を貫徹するために、各級人民代表大会、人民政治協商会議、行政機関と大衆団体の指導機関の中に設置され、事実上これらの組織の最高指導機構として機能している。
 各級党委員会は党組書記、副書記とそのメンバーを任免し、各機関の党組はその級の全体的な指導組織である党委員会の指導に従って党の政策を実施する。
 その主な指導活動として
1)組織内部の最高意思決定、
2)幹部の任免と管理、
3)組織・団体の内部にある党組織(支部など)に対する政治指導 などが挙げられる。
 1987年の第13回党大会は党政分離を理由に行政機関での党組の撤廃を決定したが、89年の天安門事件後その復活が図られた。

用語集のトップへ戻る


 
闘、批、改 :闘争、批判、改革

 毛沢東が提起した、「文化大革命」の三大任務。「一闘、二批、三改」の略称。
 この言葉が最初に使われた正式文件は、中共八期十一中全会で採択された「プロレタリア文化大革命についての決定」(略称「十六条」)である。その規定に よれば、「文化大革命」の任務とは「資本主義の道を歩む実権派を闘争によって叩きつぶし、ブルジョア階級の反動的学術‘権威’を批判し、ブルジョア階級と 一切の搾取階級のイデオロギーを批判し、教育を改革し、文芸を改革し、社会主義の経済的土台に合致しない一切の上部構造を改革して、社会主義制度の強化と 発展に役立つようにする」ことであった。この部分を「闘、批、改」と略称する。
 この後、「闘、批、改」の具体的内容には変化が生じる。中共第九回全国代表大会で、「文化大革命」が「闘、批、改」の段階に突入したことが確定される と、その主要な内容と段取りは、「三結合による革命委員会を創設し、大批判を行い、階級隊伍を整理し、整党を行い、機関を簡素化し、不合理な規約・制度を 改革し、事務職員を下放する。工場での「闘、批、改」はだいたいこのプロセスを経る。」とされた。これは毛沢東が企図した、「闘、批、改」を通して「天下 の大治」に到る、という構想を反映したものである。中共中央は「闘、批、改」の手本として、北京「六場二校」の一連の経験を各地に通達した。
 「文化大革命」の全体的な指導思想は「左」の誤ったものだったため、「闘、批、改」の各項目の具体的な実施も必然的に「左」の、実際とはかけ離れたもの だった。社会主義とは何か、資本主義とは何か、マルクス主義とは何か、修正主義とは何かといったことがはっきりしなかった当時の状況のもとでは、「闘、 批、改」は結果として、「文化大革命の成果を強固にし発展させる」ことや、いわゆる「天下の大治」を実現できなかっただけでなく、逆に建国以来十七年にわ たり蓄積してきた多くの貴重な体験を否定し、人々の思想ならびに各分野での活動に極度の混乱を引き起こすことになった。
 第九回党大会後展開された「闘、批、改」は、「九一三」事件とそれに続いて展開された批林整風運動によって中断された。 

用語集のトップへ戻る


F


 
「反題材決定」論:「題材決定反対」論 

 現代的題材を描くことを極端に強調することに反対し、芸術創作のスタイル、形式、ジャンル、題材などの多様化を主張するといった正しい観点に対する江青一味側からの蔑称。「黒い八つの論」の一つ。
 「左」傾思想の各領域での蔓延、進展に伴い、文芸が無条件に政治に奉仕することが、徐々に、すべてを圧倒する高圧的なスローガンおよび背くことのできな い原則となった。特に中共中央政治局委員、中共上海市委書記の柯慶施が、建国後の十三年を描こう、というスローガンを提起して以来、こうした誤った傾向が ますますエスカレートし、作家、芸術家は必ず現代的題材を描かなければならないという強制的な状況を作り出した。いわゆる現代的題材とは、当時の政治運 動、またこれらの運動に参加した労農兵のことであった。この結果、文芸創作は、主題の単一化、方法の単純化、モデル化、表現形式のスローガン化、紋切り 型、および誇張といった偏りに見舞われることになった。
 当時の文化部と文芸界の各協会の責任者であった周揚、夏衍、陽翰笙、田漢、邵栓麟らは、文芸創作の題材分野に関する問題に対して、鋭い批評と正しい主張 を次のように提起した。「現代的題材を描くことをただ機械的に規定することに反対する。現代的題材、歴史的題材のいずれをも描くべきであり、労農兵を描く ことしか許されぬ現代的題材でもって作家、芸術家の創作自由を制限することはできない。作家が熟知し、多くの人が興味を持ち、人民にとって無害であれば、 文学の対象になりうるのである。観念から出発することはできず、逆に多様化された芸術で大衆の絶え間なく増大する、多方面の精神的需要を満たし、それぞれ の作家、芸術家の違った個性と才能を発揮させなければならない。」
 百花斉放の方針を宣伝し堅持するために、直截に提唱されたこうした題材、スタイルの多様化の観点が「題材多様化」論または「題材スタイル多様化」論である。
 「文化大革命」の前夜、江青一味は自らでっちあげた「文芸の黒い線独裁」論の中で「題材多様化」論を「題材決定」反対論だと乱暴にも決めつけ、さらにこ の論が、社会主義を題材とすること、労農兵を題材とすること、文芸がプロレタリア階級の政治に服務することに反対しているといった罪名を付け加えたが、こ れは、後に「四人組」が「題材決定」、「主題先行」などの文化独裁主義を進める上での障害を取りのぞく目的から、文芸活動家に「四人組」が規定した題材、 分配した主題(「走資派と闘争する」といった類のもの)および「三突出」のモデルに従い、似たり寄ったりの紋切り型の文芸創作に全力を尽くすよう迫ったの である。


金春明等編『文革時期怪事・怪語』より引用

用語集のトップへ戻る


 
「反火薬味」論:「火薬臭反対」論

  映画題材の多様化を要求するという正しいに観点に対する、江青一味のさらなる攻撃と侮辱。「黒い八つの論」の一つ。
 59年、映画製作所長会議において、文化部副部長の夏衍は、各製作所長による撮影計画報告を聞いたが、全部で十いくつかの作品の中で、戦争物が八つも占 めており、オペラや滑稽ものはなく、ジャンルは狭いし、内容も単調であると感じた。そこで彼は党の「百花斉放」方針を実行し、新ジャンルを増やすよう求 め、さらに映画を外国へ輸出し世界市場にうってでるよう提案した。この問題の提起は明らかに正しいものであり、当時の映画界に存在していた問題に基づいて 提出された意見であった。
 64年には、ある同志が当時の「左」の思想指導の下、この意見に対して、「火薬臭」に反対するものであると述べ、反対意見を提出した。
 「文化大革命」中、江青は文化独裁主義を押し進めるため、上に述べた少数の同志の意見を独断的につなぎ合わせたものを基に、「火薬臭反対」論を作り出し、建国後十七年の「文芸の黒い線独裁論」、「黒い八つの論」として、横暴に批判した。


金春明等編『文革時期怪事・怪語』より引用

用語集のトップへ戻る


 
「風慶」号事件

 「四人組」が一隻の遠洋貨物船問題を口実に作り出した政治事件。
 「風慶」号は我が国が独自で設計、製造した一万トン級遠洋貨物船である。74年、任務を受けヨーロッパに出航し[ルーマニアに米を輸送した]、困難に打 ち勝ち、勝利のうちに帰航した。本来ならこれは喜ばしいことで、また、海洋運行を発展させるという建国後の党中央方針の正しさを証明したものでもあった。
 我が国には一万トン級の貨物船を数十年にわたり製造してきた歴史がある。解放後、50年代にはすでに一万トン級の貨物船を製造していた。しかし、その生 産能力、数量には限界があった。そこで、我が国の遠洋運輸業をより早く発展させるため、64年、周恩来総理が造船と船舶の購入を同時にすすめる決定を下 し、毛沢東主席の同意を得た。70年、周恩来は、外国船舶の借用に頼っている状態を、数年のうちに基本的に終わらせ、国内の造船に重点を置くよう指示を出 した。国内の造船だけでは需要に応えられぬ際には、適当に外国の船舶を購入し、遠洋運輸の主導権を我々の手で掌握するようにした。この指示は、自力更生で 我が国の遠洋事業を発展させる上で重要な措置であり、「風慶」号はまさにこの指導思想の産物だったのである。
 74年5月4日、「風慶」号は初めて上海港からヨーロッパに出航した。交通部は幹部の李国堂、顧文広を派遣し、船上業務に協力させた。「四人組」の上海 の徒党はこの二人を差別、攻撃し、国務院、交通部の造船問題における「洋奴哲学」、「外国崇拝・売国主義」を批判せよという無理な要求を出したが、二人は それを拒否した。「四人組」は上海にいる腹心に一万字に近い誣告資料を整理させ、江青らはこれをもとに、所謂「李、顧事件」を「反動的政治事件」だと決め つけた。「風慶」号が帰航した後、江青らは李、顧両名を上海に勾留し、批判・闘争にかけ、さらに事態を拡大させ、「黒幕をつるし上げろ」と言いふらし、そ の矛先を周恩来総理と当時国務院の業務を掌握していたケ小平に向けた。
 10月初め、毛沢東はケ小平を国務院第一副総理に任命し、重病の周恩来に替え国務院の業務を掌握させようと考えていたが、「四人組」の反対にあった。彼 らは「風慶」号事件を攻撃の武器として利用した。10月4日、江青は「風慶」号問題に関する資料に「交通部は、毛主席、党中央が指導する部ではないの か?」という批判を書き付けた。彼女は、交通部においては「買弁ブルジョア階級が我々を独裁している」と考えたのである。10月17日の政治局会議におい て、江青は真っ先に難癖を付け、「風慶」号の回覧資料を持ち出しケ小平に、「支持するか、それとも反対するのか、あるいは中間の立場に立つのか」と詰問し た。ケ小平は「私はすでにその資料を読んだが、この資料は再調査の必要がある!」と答えたので、江青は「『洋奴哲学』批判をどう思うか、賛成かそれとも反 対か」とさらにケ小平を問いつめた。ケ小平は「このような政治局で協力ができるだろうか、人に無理強いし、あなたの意見に必ず賛成しなければならないの か」と真っ向から対立した。双方譲らぬまま、ケ小平は憤然と会場を去った。彼が去った後、張春橋は「彼が飛び出してくることはとうにわかっていた。案の 定、飛び出してきた」と言った。
  その夜、「四人組」は徹夜で密謀した後、長沙に王洪文を派遣し毛沢東に事件を訴えたが良い結果は得られなかった。周恩来は病院でこの事件を知ると、す ぐに調査員を派遣し、彼も毛沢東に自分のこの事件に対する見方を報告した。彼はある人に次のように言っている。「彼ら四人(「四人組」を指す)はまずケ小 平同志のつるし上げをよく計画した上で、小平同志を何度も攻撃した。小平同志は彼らに対してずっと我慢してきたのだ」。
 「風慶」号事件の前後から次のことが明らかに見て取れる。つまり、この事件は、周恩来総理、ケ小平を攻撃し国家権力を簒奪する目的から「四人組」が進めた、政治的陰謀活動であったということである。

金春明等編『文革時期怪事・怪語』より引用

用語集のトップへ戻る


 
馮雪峰(1903.6.2−1976.1.31)

 文学批評家、詩人。本名馮福春。
 1921年朱自清らの晨光社に参加して詩の創作を始める。27年入党。30年代、中国左翼作家連盟の仕事などに従事した後、瑞金のソビエト政府に参加、 長征に加わって陝西省の革命根拠地へ移った。その後、党中央から派遣されて上海へ赴き、国防文学論争では魯迅とともに、周揚らと対立した。
 建国後は人民文学出版社長、『文芸報』総編集、中国作家協会副主席・党組書記などを歴任したが、反右派闘争では右派分子とされて失脚、死後に名誉回復された。
 著書に『回憶魯迅』(人民文学出版社、1952年)、『論文集』(人民文学出版社、1952年)、『雪峰寓言』(人民文学出版社、1952年)など。全集に『雪峰文集』(人民文学出版社、1981年〜)。

『現代中国辞典』、『簡明中国当代文学辞典』を参照。

G


 
公安六条

 67年1月13日に発布された「プロレタリア文化大革命の公安工作の強化に関する若干の規定」のこと。その内容は六条に分かれているため、「公安六条」と略称される。
 「文化大革命」が、「一月風暴」に始まる奪権段階に進展すると、もともと混乱していた局面はさらに混乱の度合いを強めた。そこで、「プロレタリア文化大 革命の形勢発展の需要に適合させるため」、言葉を換えれば、つまり、いわゆる「文化大革命」の「奪権闘争」の「勝利」を保証するため、中共中央、国務院 は、67年1月13日に、この六条の規定を発布した。
 この「規定」では、最低限の人身権利および社会秩序を保証するために必要な法律・規定を、再三述べている。例えば、殺人、放火、放毒、強盗ついては、確 実な証拠のある者を現行反革命分子として法に照らして、処罰し、また、歴史反革命分子の文化大革命への参加を禁ずるもの等である。 
 しかし、この法令の本当の狙いは、「文化大革命」の造反奪権活動に安全な保証を提供することであった。特にその第二条では、明確に次のように規定してい る。「匿名の反革命的手紙を送ること、秘密裏に、もしくは、公然と大字報を張ること、反革命的ビラを配ること、反動的標語を書くこと、反動的スローガンを 叫ぶこと、これらを用いて、偉大な領袖毛主席と彼の親密な戦友林彪同志を侮辱しようとすることは、すべて現行反革命行為であり、法に照らして、処罰すべき である」。
 この規定の精神が、後にはいわゆる「プロレタリア階級司令部」の全体のメンバーにまで及ぼされ、林彪、江青,康生一味に少しでも不満を持つ者は、すべて 「反革命」として処罰された。このため、公安六条は、林彪・江青一味の太い棍棒となり、また、全国で大量の冤罪事件を引き起こす上での、法的根拠ともなっ たのである。

金春明等編『文革時期怪事・怪語』より引用

用語集のトップへ戻る


 
工農兵学員

 いわゆる教育改革の新しい方法に基づいて大学、高専に入学した学生のこと。
 1970年6月、中共中央は『北京大学・清華大学の学生募集(テストケース)に関する報告』を批准した。その後全国各地でも実行され、各高等学校は学生 募集を開始し、授業を再開した。『報告』は統一試験での成績が良い順に入学させるという募集方法を廃止し、「大衆による推薦、指導者の批准、大学の再審査 の結合の方法」で、労働者、農民(実際には下郷知識青年)、解放軍戦士から学生を募集し、この学生を以前の大学生と区別するために「工農兵学員」と呼ん だ。
 「工農兵学員」の任務は「大学に入学し、大学を管理し、毛沢東思想で大学を改造する」ことであった。「工農兵学員」は教養試験を経ずに入学するため、レベルに相当の開きがあり、教学秩序の混乱を招いた。
 1972年5月8日、国務院科教組が伝達した『高等学校の補習クラスの試験的開設に関する北京市革命委員会科教組の報告』によれば、北京市の十一の高等 学校が受け入れた工農兵学員の教育程度はまちまちで、初級中学以上の学歴を持つ者は22%に過ぎず、初級中学が60%、小学校が20%であった。例えば、 ある数学学部の学生が2分の1+2分の1=4分の1と答えたという笑い話もある。広範な教師は教えたくとも教えることができず、やめようと思ってもやめる ことができず、教育レベルは著しく低下した。
 少数の工農兵学員の中には、補習と自らの努力で、比較的高いレベルの専門知識を身につけ、現在の四つの近代化建設に自己の才能を発揮している者もいる。

金春明等編『文革時期怪事・怪語』より引用

用語集のトップへ戻る


 
「公私溶化」論 :「公私融合論」(少しの損をして大きな得をえる)
 劉少奇は1964年、王光美との談話の中で次のように語った。「少しの損をして大きな得をえる、というのは 反対の方向に進んでいく法則である。一日 中、個人のことだけ考えていれば、最後には個人の利益もなくなり、個人の利益はその一部分を失うことになる。人民のために事に当たれば、皆もその人のこと を考えてくれる。法則性とはまさにこうしたものである。」別の講話においても、劉少奇は似通った考えを述べた。
 
 こうした述べ方が科学的であるかどうかは、研究の余地がある。しかし講話の全体の意味は、共産党員は個人の利益と革命の利益を正しく処理しなければなら ない、ということであった。党と人民の利益に奉仕してはじめて、さらには、革命のために個人の利益を犠牲にしてこそ、最も広範な人民大衆の最大の利益を獲 得できるのである。革命が勝利して、人民大衆の最大の利益が獲得されて、その後に個人の問題も解決されるし、それに応じて個人の利益も獲得される。反対 に、党と人民の最大の利益が獲得されなければ、個人の利益も解決のしようがない。
 この講話の全体的な思想は素晴らしいものである。彼は、党の利益と個人の利益との間に矛盾が生じた時には、「躊躇することなく、きっぱりと党の利益に奉仕し、個人の利益を犠牲にし、……さらには自己の生命をも犠牲にすべきである」、と何度も強調している。
 
 劉少奇同志が、個人の利益と革命の利益との関係に対してはっきりとした観点を持っていたことは、明らかである。直接に言えば、生命でさえ犠牲にするの に、大きな得をえることなど問題になるだろうか。ところが林彪、江青一味は、劉少奇の講話から自分の都合の良い部分を取り上げ、「少しの損をして大きな得 をえる」という言葉だけを抜き出し、「公私溶解論」としてことさらに問題化し、さらにはこの論を、共産党員を我利我利亡者へ変質させようと企む、資本主義 の道具であると言い成した。このことは、彼らが、劉少奇の進めるいわゆる「修正主義」にその「思想的根源」――「私」の字があることを証明しようと企んだ に過ぎないが、誰が「私」の字を言ったことがあるだろうか。
 
 こうしたことから、このように大きな中国の、数億にのぼる人間がすべて劉少奇「修正主義」の影響である「思想基礎」を受け入れているならば、林彪、「四 人組」の指導の下、数億にのぼる人間はすべて、懸命に「害毒を一掃し」、「根源を掘り起こし」、彼らの精神的奴隷にならなければならないようになった。も しそうしなければ、「悪人とぐるになった」という罪を着せられるのである。
 これと同時に、彼らは、劉少奇および流血の犠牲を惜しまなかった老世代の革命家を、革命に投機したのは大きな得をえるためだったと言い成し、「一切を打倒する」、「過去に革命をやった人間を革命する」といった類の反動的主張を推し進めたのである。

金春明等編『文革時期怪事・怪語』より引用

 
根本任務論

  「四人組」が、文芸界全体を極左的軌道に乗せた誤った理論。
  この謬見は66年2月の「文芸界の黒い路線独裁論」と時を同じくして出された。当時の言い方は「英雄的工農兵の形象を作り出すことに努めること、これ こそ社会主義文芸の根本任務である」であった。74年「四人組」はさらにこの表現を「英雄的プロレタリア階級の典型を作り出すことが、社会主義文芸の根本 任務である」と改めた。
  「根本任務論」はマルクス主義文芸理論に背いたものである。マルクス主義では、文芸は上部構造の範疇に属し、社会の政治、経済の観念形態上における反 映であり、一定の政治体制、経済制度に奉仕するものだと考えられる。さまざまな人物形象を作り出すこと、これは英雄的プロレタリア階級の人物形象を作り出 すことと共に、文芸の典型化の問題であり、また、各種の手段を用いて、いかに文芸を人民のためのものとするかという重要課題の一つであり、決して文芸の 「根本任務」ではない。文芸は上部構造の範疇に属し、社会の政治、経済の観念形態上における反映であり、一定の政治体制、経済制度に奉仕するものだと考え られる。さまざまな人物形象を作り出すこと、これは英雄的プロレタリア階級の人物形象を作り出すことと共に、文芸の典型化の問題であり、また、各種の手段 を用いて、いかに文芸を人民のためのものとするかという重要課題の一つであり、決して文芸の「根本任務」ではない。
  「根本任務論」は「百花斉放・百家争鳴」の方針を踏みにじり否定するものだった。文芸の百花園の中には、さまざまな芸術分野があり、さまざまな手法と 形式がある。社会生活を描く分野にもそれぞれ違いがあり、ある分野では人物形象を作り出すことができるが、歌のように作り出せない分野もある。また風刺小 品、雑文、相声、山水花鳥画のように、英雄形象を作り出すにはふさわしくない分野もある。そうであってもこれらの分野も確かに文芸題材の一つであり、民族 の特色を具体的に持つ文芸形式であり、大衆に愛されているのである。ところが、「四人組」の「根本任務論」は、この多種多様にわたる豊富でさまざまな文芸 形式を、誰にも顧みられることのない場所へ乱暴にも追いやり、「根本任務論」に違反したという口実で一律に禁止し、その結果、「八億の人民に八つの劇」と いう状況を作り出し、これらを除いては、演劇、詩歌、映画はほとんどなく、創作はかつてない危機を迎え、文壇は寂れてしまった。
  「四人組」が押し進めた「根本任務論」の、芸術における実践と目的は、「「走資派」と闘争する英雄をつくりだすこと」を提唱することであった。例え ば、映画『反撃』の江涛、また現実社会の張鉄生、陳阿大といった類の造反英雄、社会の滓たちは、文芸を「四人組」の党権簒奪のためのラッパ、賛歌に変えて しまった。

金春明等編『文革時期怪事・怪語』より引用。

用語集のトップへ戻る


 
関鋒(Guanfeng):かんほう

 文革で指導的役割を果たした人物。
 66年5月、何明の名で「目をこすって真偽を見分けよう」を発表、北京市党委に矛先を向け、文革発動の世論づくりをする。また「五・一六通知」の起草に 参加、中央文革小組のメンバーとなる。同年末、解放軍総政治部副主任。67年1月全軍文革小組副組長。7月軍内での奪権を呼びかけ、8月極左分子として排 除され、隔離・監禁される。四人組失脚後、党籍は剥奪されるが、起訴免除。

用語集のトップへ戻る


H


 
浩亮 (Kangliang):こうりょう
 京劇俳優。江青の文学界における三人の腹心の一人。
 64年革命模範劇「紅灯記」の主役李玉和を演じる。文革中、江青の文芸界における腹心として活躍。75年文化部副部長。76年四人組失脚後、隔離審査。81年釈放、党籍剥奪。

用語集のトップへ戻る


 
黒八論 :黒い八つの論

 江青が開いた部隊文芸工作座談会においてでっちあげられた「文芸界の黒い路線独裁」論の所謂代表的な論点。
 黒い八つの論とは、すなわち「写真実」論「現実主義広濶道路」論「現実主義深化」論「反題材決定」論、「中間人物」論、「反火薬味」論「時代精神融合」論「離経叛道」論のことである。
 『紀要』はこれらの論点を列挙しながら、これらが、「毛主席の思想と対立した、反党・反社会主義の黒い路線」の「代表的論点」であると述べているが、実 際には、当時の文芸界に提起された自分たちとは違った観点に対して、それらを歪曲して総括したものであり、また、文芸界のすべてを打倒し、「左」傾方針を 貫徹するために、用いられた口実でもあった。

金春明等編『文革時期怪事・怪語』より引用

用語集のトップへ戻る


 
黒六論 :黒い六つの論
  江青、康生、陳伯達等が苦心惨憺してでっちあげ、劉少奇にいわゆる「修正主義」のレッテルを貼った謬論。  こうした言い回しが最も早く見られるの は、1968年10月16日『人民日報』に転載された『紅旗』第四期社説『プロレタリア階級の新鮮な血液を吸収する――整党工作における重要問題』におい てである。この社説は「中国のフルシチョフ」が推し進めた「黒い六つの論」を批判するよう提起している。「黒い六つの論」とは、すなわち、「階級闘争消滅 論」「従順な道具論」「大衆落後論」「入党出世論」「党内平和論」「公私融合論」のことである。
 実際には、劉少奇の著作中には、この六つの論点のどの一つもなく、全体的な思想の中にもない。これらは完全に、江青一味が自分の都合の良い部分だけを取り上げ、本来の意味を歪曲してでっちあげたもので、人に無理やり着せた罪名である。


金春明等編『文革時期怪事・怪語』より引用

用語集のトップへ戻る


 
「階級闘争消滅」論 
 劉少奇は決して、中国において階級闘争がすでに消滅したといった類の話をしたことはなかった。それとは逆に、彼は中共第八回全国代表大会の正しい判断 ――社会主義改造が基本的に完成された後、国内の主要矛盾はすでに労働者階級とブルジョア階級との矛盾ではあり得ず、人民の経済、文化の急速な発展に対す る要求と、現在の経済、文化が人民の要求を満足させていない状況との間の矛盾である――に基づき、いくつかの講話を行った。

 1956年から57年春にかけての数回の講話の中で彼は次のような考えを示している。「現在、国内の敵はすでに基本的に消滅され、地主階級はかなり前に 消滅し、ブルジョア階級も基本的に消滅したので、反革命分子はまだその残余分子を残しているとはいえ、現在、我々の国内の敵味方の矛盾がいまだ主要矛盾で あるとは言えない」。同時に彼は少数の反革命分子に対する警戒を高めなければならず、警戒心をゆるめるのは間違いであるとさらに強調している。こうした見 方は当時の我が国の基本状況に合致し、中共八全大会の決議に合致し、また毛沢東の当時の階級闘争問題に対する観点とも一致するものだった。

 しかし、1957年の反右派闘争後、毛沢東は本来の観点を変え、社会主義は非常に長い歴史的段階であると見なした。この歴史的段階においては、階級、階 級矛盾、階級闘争が一貫して存在しており、二つの階級、二つの道の闘争が依然として国内の主要矛盾であり、党内でこの観点と異なる意見を持つ者は、階級闘 争の反映だとされ、さらには中央に修正主義が発生していると考えた。この毛沢東の「左」の観点に対して、劉少奇は公然と反対したことはなかった。

  「文化大革命」中、林彪、康生、江青らは、劉少奇を「批判によって打倒し、批判によって鼻つまみ者にする」ために、時間、条件の変化を全く顧みず、劉 少奇の十年前の一部の講話から、自分の都合のよい部分だけを取り出し、「階級闘争消滅論」の大レッテルをかぶせ、組織的な批判を行った。

 彼らによって「階級闘争消滅論」だと歪曲され誹謗されたのは、実際には、生産手段における社会主義改造が基本的に完成した後は、階級闘争を再び中心としない、という劉少奇の正しい観点だったのである。

金春明等編『文革時期怪事・怪語』より引用

 
「従順な道具」論

  共産党員は党の従順な道具とならなければならない、といった話は劉少奇が実際に語ったことである。しかし「文化大革命」中に批判されたものとは、意味が違っていた。
  1958年、『北京日報』は「共産党員は個人の願望を持つべきかどうか」の討論を展開した。この討論の総括として、『北京日報』は党員と党との関係に ついて的を射た回答を与える劉少奇の講話を発表した。劉少奇は「一部の者が党は車で、自分はその車のドライバーだと見なし、党という車にはい上がって車を 操ろうとしている」ことに反対した。彼は党員とは党の従順な道具であるべきであり、言うことを聞かない道具であってはならない、と考えた。
  党員個人は党組織の決定と決議に無条件に服従すべきであるという角度から考察すれば、彼のこうした話は妥当な話であった。しかし共産党員を「従順な道 具」とイコールで結ぶなら、これは妥当ではない。というのは、共産党員はプロレタリア階級の先進分子であり理論武装を備えたものだからである。共産党員の 鉄の規律は高度な自覚の上に建設される。それは機械的な服従ではなく、自主的な規律である。一人ひとりの共産党員が党の利益のために自ら望んで組織に絶対 的に服従すること、これは思想の自主的な基礎の上に立てられるのであり、そうしてはじめて、我々の党が一つまた一つと勝利を獲得するうえでの基本条件の一 つとなるのである。
  林彪、江青一味がこの劉少奇の講話をつかまえて、「従順な道具」、「奴隷主義」に大々的に反対したのは、造反を扇動し、「党委を蹴飛ばしのけ革命をや る」ことをあおり立てるためであった。仮に「従順な道具」論を劉少奇の「修正主義の反動的しろもの」とするならば、「従順な道具」の反対は従順でない何か しらの道具となることである。従順でないならばすなわち、「大騒ぎする」であり、「反対する」であり、「大騒ぎして優なれば則ち仕う」を大々的にやって、 「四人組」の反潮流の「英雄」となることであった。これがすなわち林彪、江青らが「従順な道具」論を批判した目的である。

金春明等編『文革時期怪事・怪語』より引用

 
党内平和論

  劉少奇は党の建設理論の研究に生涯、力を注ぎ、党内の矛盾と党争をいかに正しく処理するかについて、多くの正しい論述をなしている。その中でも『党内 闘争を論ず』は、延安での整風期に中央が必読と規定した文献である。この文章は、王明路線が「残酷な闘争、非常な攻撃」を党内で実行し、さらには、何の根 据もなく党内の同志を、敵が送り込んだスパイだと見なしたことが、悪影響を生んだことに対して、「原則的路線においては、完全一致の党内平和」を保持する ことの重要性を特に提起した。同志間の、純粋な実際的性質を帯びる問題に対しては、いくつかの異なる意見を主観的に拡大してはならず、一部の同志を「日和 見主義」として「捜索・逮捕」をしてはならず、党内闘争の攻撃の「草人〔意味不明〕 」としてはならない。 こうした意見と論述は、疑いもなく正しいもの であり、党内の矛盾と闘争を如何に正しく認識し対処するかに有益なものである。

  「文化大革命」中、林彪、江青一味は劉少奇を徹底的に「批判によって打倒し、批判によって鼻つまみ者にする」ために、さまざまな卑劣な手段を用い、劉 少奇の著作を改竄し、内容の両端を切り落とし、「党内平和」の四文字を取り出して、それを「党内平和」論としてまとめ上げ、「修正主義」のレッテルを貼り 付け、大衆に批判するよう強制した。人々も、党内の矛盾と闘争に関する絶対化という毛沢東の晩年の誤った観点に基づいて、これを考察し、「共産党の哲学と はつまり闘争の哲学である」という観点から、これを原則的問題とした。その結果人々の思想は混乱し、「残酷な闘争、非常な攻撃」という「左」傾の誤りは助 長され、党組織は甚大な破壊を被った。

  党内の矛盾は複雑で交錯しているが、実際にはそれは敵対性の矛盾ではない。党内の思想の分岐も階級闘争の反映ではない。階級社会においては、社会の階 級闘争は不可避的に党内に反映されるものであるが、しかしこれは党内の矛盾の一部分にすぎない。階級が基本的に消滅された社会においては、ほとんどの矛盾 はすでに階級闘争の性質を帯びたものではない。こうした社会条件においては、党内の矛盾と闘争は、根本的目標、根本的利益が一致した条件下での、思想、認 識上の先進と落後、正しさと誤り、ならびに一面的、不完全な認識と、それとは別の一面的、不完全な認識の間の矛盾と闘争なのである。

金春明等編『文革時期怪事・怪語』より引用


用語集のトップへ戻る



「大衆落後」論

  「文化大革命」中、劉少奇に対し無理やり加えられた「黒い六つの論」の一つであるが、劉少奇は実際にはこうしたことを述べたことはなかった。
  「文化大革命」中、「理論」として批判された主要な文章は、以下の二つである。

  一つ目は劉少奇が1941年に著した『人間の階級性』の中の文章である。この文章は農民階級の二重性を分析し、その革命性を指摘すると同時に、その落 後的一面も指摘している。落後的一面として、農民の散漫性、保守性、狭隘性、落後性、および財産の私有観念などに触れている。劉少奇のこれらの分析はすべ て実際にそぐうものであり、またマルクス主義の一貫した分析でもある。農民の落後性に対する革命導師の分析の言葉には、劉少奇がこの文章で語ったものより さらに厳しいものさえある。

  もう一つは劉少奇の七期二中全会での講話から取り出したものである。彼は次のように述べている。「労働者には必ず頼らなければならない。マルクス主義 は、最も頼れるのは労働者階級であると考える。しかし[党が]工作に努めなければならない。工作しなければ、頼ろうと思っても頼ることができない」。彼は 比喩を用いて「椅子とは本来頼ることのできるものである。しかしどこかが壊れていれば頼ることは難しい。そこを修理してやればまた頼ることができるものに なる」。
 どんな比喩にも限界性があり、完全に適当であることはもちろん不可能であるが、しかし劉少奇の講話の主要な意味は、共産党が工作を行わなければならない ことを強調し、マルクス・レーニン主義を用いて労働者を教育し、労働者の自覚を高めなければならない、というところにあり、この発言に誤りはない。

  「文化大革命」中、劉少奇の以上の二つの講話中の、「落後」、「壊れた椅子」に関する部分だけを取り出し、これに基づいて劉少奇を「労働者、農民、大 衆を敵視し」、「労働者階級を壊れた椅子、頼ることができないものだと誹謗した」と批判した。これらは「大衆落後」論として概括され、大規模な批判が展開 された。

  林彪、江青一味はこうした一つの「理論」をでっちあげ、劉少奇に対する批判を進めたが、これは実際には彼らの「大衆運動天然合理」論を売りさばくため のものだった。「大衆を信頼し、大衆に頼り、大衆運動を支持する」という看板を引っさげて、大衆を動員し、全国を混乱させ、党の指導を取り消した。誰でも 反対する者があれば、それは劉少奇の「同じ穴のムジナ」であり、「大衆落後」論を散布しているのであり、批判されるべきであり、打倒されなければならな かった。その結果、「先進」的「革命造反派大衆」を名乗る者のほしいままとなり、悪人、悪事は処理されず、社会風潮は日増しに腐敗していった。

金春明等編『文革時期怪事・怪語』より引用

用語集のトップへ戻る


 
何其芳:かきほう
 
 1912.2.5−77.7.24。詩人、文芸評論家。
 36年卞之琳、李広田と合著の詩集『漢園集』、37年『予言』を出版。知的唯美主義の詩人として出発。抗日戦争中の38年延安に行き中共入党、39年魯迅芸術学院文学系主任。
 抗日戦争後は党の指示で重慶に移り、「関于現実主義」などの論文で毛沢東の文芸講話路線を宣伝し、胡風と対立。
 建国後は試作よりも文学理論と研究に従事。中国作家協会書記処書記、文学研究所長、「文学評論」主編。教条的でない柔軟な視点で文学を論じた。「何其芳文集」全6巻がある。

『岩波現代中国事典』(岩佐昌ワ)を参照。
 
黄バイ[草冠+倍]佳:こうばいか 1955年6月27日−

 作家。女性。1955年6月27日、江蘇省の如○県に生まれる。1973年、於秦興県黄橋中学を卒業する。その年、処女作「補考」(『朝霞』、上海人民出版社、1973年5月)を発表し、於秦興県長青農場へ下放する。1977年北京大学中文系に入学する。
 1982年、大学卒業後、江蘇省外事辧公室で働く。1985年江蘇省作家協会専業作家に配属。その後、『江蘇文芸』、『上海文学』、『文匯月刊』、『鍾 山』、『安徽文学』、『少年文芸』などの雑誌に小説、散文、児童文学作品など60数編を発表。79年と80年に江蘇児童文学創作奨を受賞している。
 代表作に、長編小説『夜夜狂歓』、『新乱世佳人』、中編児童小説『唱給ママ的歌』、短篇小説『在水辺』などがある。
 邦訳:「少女トゥーチャン」石田稔/訳 『中国児童文学』8 1989

『中国文学家辞典』、『中国当代文学辞典』、オンライン中国20世紀文学辞典 を参照。

J


 
経済主義歪風 :(経済主義の邪な風)

 1966年末、江青の扇動により形成された、給料の値上げ、各種の補填を要求する邪な風潮のこと。
 1966年12月18日、江青は北京の大学・高専の造反派を接見した際、「契約工は劉少奇が実施したもので」、「修正主義のやり口である」と述べた。 12月26日夜、江青は契約工、臨時工によって組織された「全国紅色労働者造反総団」の代表を接見し次のように述べた。「劉少奇の妻は大資本家であり、 (契約工の規定は)彼の妻が作り上げたやり口にほかならない」、「これは完全に資本主義のやり口で、一定数の臨時労働者を確保することで、資本の支給を減 少させようとするものであり」、「あなた方は全国の労働配属部門を一掃しなければならない!」、「北京で全国規模の契約工、臨時工の告発・批判大会を開催 することを建議する」。
 康生は「契約工制度を制定したのは他ならぬフルシチョフであり、……今日、この制度は我が国が変質するかしないかに関わる大問題である。ソ連はつまりその一例である」と述べた。
 
 江青一味の扇動の下、各地の契約工、臨時工は次々と給料の補填を要求し、生産秩序を混乱させ、交通をストップさせた。一部の地区の造反派は機に乗じて革 命指導幹部に昇級、給料の値上げを要求し、経験交流の費用、補助費を請求し、住居を無理やり占有した。これを拒めば、つまり「劉少奇の反革命修正主義路線 を堅持する」ことだとされた。彼らは我先に単位、党・政府の指導者に書き付けを認めさせ銀行で現金を受け取らせ、各種の品物を購入させ、大規模な経済混乱 を引き起こした。
  
 こうした誤った方法は毛沢東の批判を受けた。江青らはこのことを知るとすぐさま態度を変え、彼ら自身が扇動した経済主義の邪な風潮を、逆に「資本主義、 反動路線の新たな反攻」だとでたらめなことを言い、その責任をいわゆる「資本主義の道を歩む実権派」に転嫁した。張春橋らは真っ先に行動し、彼ら一味が事 の起こりをでっちあげ、市委員会を包囲攻撃したことで招いた生産麻痺、交通のストップ。経済の混乱の責任を上海市委員会に転嫁した。
 彼らは『文匯報』を利用して1月5日に『革命をやり、生産を促進し、ブルジョア反動路線の新たな反攻を徹底的に粉砕する――上海全市人民に告げる書』を 発表し、さらに9日には『緊急通告』を発表し、自己の正当性を主張し陳丕顕[上海市党委第一書記]、曹茯秋などの同士を誹謗した。
 1月12日、『人民日報』、雑誌『紅旗』は編集部の文章――『資産階級反動路線の新たな反撃を粉砕せよ』を発表し、次のように述べた。「走資派」は大衆 を腐蝕し丸め込んでいる、「経済主義」を用いて大衆を欺き、大衆を扇動し、生産を破壊し、金融を破壊し、プロレタリア文化大革命を破壊している」。

 周恩来は江青一味のやり方に断固として反対し、契約工、臨時工制度は廃止できず、問題点は運動の後期まで待って解決すべきだと認識していた。中共中央も 1967年1月11日に、『経済主義反対に関する通知』を発し、各地方、各部門に「文化大革命」中に起きた経済主義の傾向を直ちに停止するよう求めた。
 2月17日、中共中央、国務院は通告を出し、臨時工、契約工、輪番工、請負工などの制度は中央で新たな決定がなされるまでは、これまでの方法で行うよう述べた。「全国紅色労働者造反総団」も1967年2月24日に中央の正式な公布により取り締まりを受けた。


金春明等編『文革時期怪事・怪語』より引用

用語集のトップへ戻る


K


 
康生 (Kang Sheng): こうせい

 党副主席、中央文化革命小組顧問。33年ソ連に渡り、中共駐コミシテルン代表団副団長となる。翌年党6期5中全会で欠席のまま中央政治局委員に選出され る。37年帰国。延安で党中央社会部島情報部長を務め、特務工作の責任者として党内のスパイ摘発工作に力を発揮。42−43年延安の整風運動を指導し、多 くの幹部の粛清に関与した。46年党中央政治局委員建国後、党中央山東分局書記に就任するが、病気を理由に長期休養。56年党中央政治局候補委員。反右派 闘争で「右派」の摘発を行なう。62年党中央書記処書記。
 66年中央文革小組顧問となり、党内の実権派摘発をはじめ、1万6000余人の死者を出した内モンゴル人民党事件や新彊反逆者集団冤罪事件など数々の冤 罪事件を起こして幹部と大衆を迫害し、党内に陰然たる勢力をもった。69年党中央政治局常務委員。70年党中央宣伝部と中央組織部が合体して中央組織宣伝 組が成立すると、組長に就任し、江青らと共に情報・宣伝機関を一手に握る。73年党中央副主席。75年病没。80年10月党から除名。同年11月林彪・江 青反革命集団の主犯とされたが、死亡のため刑事責任は追求されず。

用語集のトップへ戻る


 
柯慶施 (Ke Qingshi): かけいし

 党の指導者、国務院副総理。上海を地盤とした中共の指導者で、特に大躍進期に張春橋、姚文元と共に毛沢東の政策を積極的に支持した。 58年上海市長、中共中央華東局第一書記、65年国務院副総理などを歴任。著書に「勝利十年」など。

『岩波現代中国事典』(小林昌之)を参照。 

用語集のトップへ戻る


L


 両個評価(lianggepingjia):二つの評価
 
 「四人組」が我が国の解放後十七年の教育活動と教育活動家を全面的に否定した反動的観点。
 71年4月15日から7月31日まで、全国教育工作会議が北京で開催され、遅群が中心となって起草し、張春橋、姚文元がまとめた『全国教育工作会議紀 要』が採択された。8月13日、中共中央はこの紀要を関係機関に転送した。この紀要は教育方面の「左」傾観点を全面的、系統的に詳しく述べており、一連の 「左」傾政策を決定することになった誤った文件であった。
 『紀要』は実際の状況とは全くかけ離れた「二つの評価」を提起した。「二つの評価」とは、一つには、建国後の十七年において、「毛主席のプロレタリア教 育路線が基本的に貫徹、実行されておらず」、「ブルジョア階級がプロレタリア階級を独裁している」ことを指し、二つには、大部分の教師と解放後養成された 大量の学生の「世界観は、基本的にブルジョア階級の世界観である」というものであった。
 『紀要』は、この「二つの評価」を拠り所に、一連の「左」傾政策、措置を明確に打ち出しており、「労働者宣伝隊は学内に長期にわたり留まるべきで、さら には永遠に学校を指導すべきである」、「大多数の知識分子を労農兵の中に送り込み再教育を施すべきである」、「労農兵出身の学生を大学に送り込み、大学を 管理させ、大学を改造すべきである」、「大学の学制を短縮すべきである」、「多数の高等学校を地方の管理に任せるべきである」といった内容を盛り込んでい る。
 
 「二つの評価」は教育戦線における広範な幹部、大衆の積極性に著しい打撃を与え、広範な知識分子を長期にわたり政治的迫害、精神的抑圧に追い込み、教育事業の発展を阻害する重たい枷となった。
 77年9月17日、ケ小平は教育部責任者との談話の中で、教育戦線の混乱収拾を求め次のように語った。「「二つの評価」は実際に合わないものだ。数百 万、さらには数千万にのぼる知識分子を一撃の下に叩きのめすことなどどうしてできようか。我々の現在の人材の大部分は、やはり十七年の間に養成したのでは ないか。」
 79年3月19日、中共中央はこの『紀要』を取り消すことを決定し、「二つの評価」を否定した。

金春明等編『文革時期怪事・怪語』より引用

用語集のトップへ戻る


両報一刊(liangbaoyikan):三紙誌(さんしし)

 「人民日報」「解放軍報」(両報)と「紅旗」(一刊)のこと。
 「人民日報」は中共中央機関紙、「紅旗」は同理論誌、「解放軍報」は人民解放軍総政治部発行の機関誌。
 文化大革命期に三紙誌は元旦や運動の重要な節目ごとに新しい方向を指し示す共同社説や共同論文を発表した。
 1966年5月30日、★陳伯達が工作組を引き連れて人民日報社を奪権して以後、『紅旗』、『人民日報』は★王力・関鋒らの支配下に置かれた。8月30日に王力・関鋒が逮捕されると、陳伯達、姚文元が中央の宣伝工作を接収管理した。
 「四人組」失脚後も三紙誌による共同編集形式は以前踏襲され、1977年2月、三紙誌に「文書をよく学び、しっかりと要をつかもう」という題の文章が掲載され、「二つのすべて」の観点を提起した。
なお、上海の『文匯報』、『解放日報』、『支部生活』も「両報一刊」と呼ばれた。

用語集のトップへ戻る


 
梁効(Liang Xiao):りょうこう

 四人組の御用執筆グループ「北京大学・精華大学大批判組」のペンネーム。
 「北京大学・精華大学大批判組」は文化大革命紅旗に、精華大学党委書記の遅群と北京市革命委副主任の謝靜宜によって組織された。「梁効」は「両校」と同音。
 同グループは梁効グループともよばれ、北京、精華、両大学の教員を中心に組織されていた。梁効グループは「紅旗」や「人民日報」などに優先的に文章を発表する特権が与えられ、「林彪と孔孟の道」などの重要論文を多数発表して批林批孔運動運動などを指導した。
 1976年、四人組失脚後、解散させられ、メンバーは審査を受けた。
 『岩波現代中国事典』、望月暢子

用語集のトップへ戻る


 
「離経叛道」論 :「離典背道」論
 映画の題材の多様化、新ジャンルの増加、という正しい主張に対する、江青一味による蔑称。
 59年7月21日に開かれた映画製作所長会議で、文化部副部長の夏衍は次のように述べた。「各製作所の状況から見てみると、軽い愉快な作品はやはり数が 少なく、歌舞もの、滑稽ものは、まだ制作されていない……十いくつかの作品のうち、戦争ものが8つを占めており、題材の範囲が狭く、スタイルも多様化され ていない」。夏衍は「新しい種類の映画制作を意識的に組織し、意識的に増加しなければならない」と提起すると共に、映画化が可能な、革命の歴史・闘争を描 いた題材および歴史知識を学ばせ、精神情操を向上させ、同時に芸術的に楽しめる作品を列挙し、さらに「我々の現在の映画は、どれもお決まりの‘革命の経典 ’、‘戦争の道’ばかりで、それ以外のものはなにもない。これでは、新しいものは出てこない。私の今日の発言は、‘経典’から離れ、‘道’から背こう、と いうことだ。皆の思想を解放するには、百花斉放方針を貫徹し、意識的に新ジャンルを増加させなければならない。」
 この会議後、夏衍はさまざまな場所で、さまざまな形式を用いて、「左」傾思潮と政治運動によって生み出された、「芸術上に功があることより、政治上に誤 りがないことを求める」という、映画制作員、シナリオ中に見られる消極的な思想を正し、芸術の繁栄を促進させようとした。しかし、64年の文芸界の整風運 動で、夏衍のこうした言論は、公正でない批判によって、革命の道から背くことを鼓吹し、マルクス主義・社会主義の道を離れ、ブルジョア自由化をすすめるも のだ、とされた。さらに「文化大革命」が開始されると、江青一味が著した『二月紀要』の中で、いわゆる「離典背道」論として、「八つの黒い論」の一つに数 えられた。
 大衆とは多種多様のものである。各人の好み、趣向はそれぞれ異なっている。映画芸術の大衆性はそれよりさらに幅広く、そのため、広範な大衆に奉仕するに は、さまざまな方法、さまざまな題材、スタイル、さまざまな風格を持つ作品が必要であり、これは客観的な要求である。中国共産党が指導した人民革命闘争を 主題とする映画、その中でも革命戦争を題材とする映画、これは疑いもなく必要なものであり、また大衆の歓迎を受けるものである。しかし、映画の題材をただ それだけに限定するべきでなく、さらには、その題材を一種の凝り固まった枷として、映画の題材を制限するべきではない。
 題材の多様化の提起は、マルクス主義の経典・道を離れていないだけでなく、まさに、世界の多様性の客観的弁証法を反映したものである。多様化があって初めて、繁栄があるのであり、社会主義の映画園地に百花を咲かせることができるのである。
 「文化大革命」の実践は、左傾した硬直した観点が実に有害であることを、すでに充分に物語っている。

金春明等編『文革時期怪事・怪語』より引用

用語集のトップへ戻る


 

 林黙涵(Lin Mohan):りんもくかん、1913年12、30−
 文芸評論家。20年代末から福州、厦門、上海などで地下活動に従事、東京、上海、武漢を経て38年延安で学び、その後重慶、香港の新聞界で活動。49年 北京に帰り、中華全国文学芸術界連合会(現、中国文学芸術界連合会)に加入。以後中共の文芸官僚として文芸界の理論、行政の分野で活躍。文連副首席、文化 部副部長、党中央宣伝部副部長などを歴任。文革期には“周揚一派”と批判され、監禁などの迫害を受けた。
『岩波現代中国事典』、塩見敦郎

用語集のトップへ戻る



劉慶棠(Liu Qingtang):りゅうけいどう、1932−

 もと中央歌劇舞劇院バレエ劇団ダンサー隊副隊長。現代バレエ劇『紅色娘子軍』で主役を演じる。文革中は国務院文化組のメンバーで、後に文化部副部長に就任。中共第9回・10回全国代表大会の代表に選ばれた。江青グループの重要な中堅幹部。
 江青グループが打倒された後、逮捕され、懲役17年、政治権利剥奪4年の判決を受けた。
 『中国文化大革命事典』、178頁

用語集のトップへ戻る


 
羅思鼎(Luo Siding):らしてい

  四人組の御用執筆グループ「上海市党委員会執筆グループ」(文化大革命中の71年7月に成立)のペンネーム。
 模範兵士の雷鋒が唱えた「ネジ釘精神」にあやかった名。同グループは張春橋と姚文元が統括し、「批林批孔」「右からの巻き返しに反撃する」などの運動において、数々の重要論文を発表して周恩来やケ小平らを攻撃し、四人組のために世論工作を行った。
 76年四人組失脚後、解散させられ、メンバーは審査を受けた。
 『岩波現代中国事典』、望月暢子

用語集のトップへ戻る


M


 
馬烽(Ma Feng):ばほう、1922−

 「人民文学」を代表する作家の一人。本名は馬書銘。38年抗日ゲリラに参加、同年中共入党。40年延安部隊芸術学校に入る。56年以後、中国作家協会山西省分会主席と山西省文連主席。
 代表作に短編集『村仇』(50年)、「我的第一個上級」(59年)や映画脚本「我們村裏的年軽人」(59年)、長編伝記小説『劉胡蘭伝』(64年)などがある。
 文革中は趙樹理とともに、厳しい批判を受けた。


 
毛沢東到江青的一封信 :毛沢東が江青に与えた一通の手紙

 1966年7月8日の手紙。
 第九回党大会において、林彪は毛沢東の後継者としての地位を公式に獲得した。文革を始めるにさいして、林彪は毛沢東の個人崇拝化を大々的にすすめ、毛を手放しに「天才」と持ち上げた。
 しかし毛沢東と林彪は、文革期においてすら、必ずしも立場が完全に一致したわけではなかった。特に林彪が党中央政治局会議(1966年5月18日)で述 べた「宮廷クーデター」について、毛はこの手紙の中で林彪に対する不安を表明している。さらに個人崇拝化に対しても、毛は林彪らに「迫られて迫られて梁山 に登った」と、自らの意志ではないことを強調している。
 この手紙は長く公表されず、林彪事件後の1972年5月に公表された。

語集のトップへ戻る


N


聶元梓(Nie Yuanzi):じょうげんし

 1921年生まれ、女性。文革期の大学造反派リーダー。○大富らとあわせて大学造反派の「五代領袖」と称された。
 64年北京大学哲学系党総支部書記。66年5月北京市および北京大学の党委を攻撃する大字報を発表、毛沢東から〈全国初のマルクス・レーニン主義の大字報〉と称賛される。同年夏、北京大学文化革命委主任となり、造反派を率いて同大学で最も権威を振るった人物となり、反対派からは「老仏爺」(西太后を指す)とそしられた。67年4月、北京市革命委の成立とともに副主任に就任する。
 67年夏、北京大学内に反聶勢力連合の「新北大井岡山兵団」が成立。聶元梓の「新北大公社」もこれに反撃し武闘に発展した。68年3月からは大学構内で武闘が絶えず発生し聶元梓はその前線で指揮を執った。
 68年8月、労働者毛沢東思想宣伝隊が北京大学に進駐、双方の武装を解除、聶元梓も実権を剥奪され、9月極左派として隔離審査にかけられる。翌年の九全 大会では党中央候補委員に当選するが、まもなく下放されこれ以後の7、8年間、監督労働と隔離審査を受ける。
 78年逮捕。83年反革命宣伝扇動罪・誣告罪で懲役17年、政治権利剥奪四年。

用語集のトップへ戻る


Q


S


 
『三上桃峰』事件


 「批林批孔」中、「四人組」が晋劇『三上桃峰』をもとにでっちあげた政治事件。

 1974年初め、文化部は華北地区文芸コンクールを北京で挙行することを決定した。山西省は晋劇『三上桃峰』を選び参加した。この劇は1965年7月 25日、人民日報に掲載されたレポート『一匹馬』に題材を取ったもので、撫寧県での出来事を描き、病気の馬を騙されて買ったために損をした桃峰大隊に、劇 の女主人公が一匹の馬を贈り、それによって春の耕作を援助するという共産主義の風格を賛美していた。しかし思いもかけず「四人組」の怒りに触れ、「文芸の 黒い路線復活」批判の突破口、反動的典型だとされた。

 2月18日、『人民日報』は初瀾の名義で、姚文元自らが十一カ所を訂正し、江青、張春橋によって定稿された『評晋劇〈三上桃峰〉』を発表した。文章は牽 強付会の卑劣な手法を用いて、かつて撫寧県の桃園大隊で「社会主義教育」を行った劉少奇夫人、王光美とこの劇を無理やり結びつけ、でたらめにも王光美は桃 園大隊に一匹の大きな赤い馬を贈ったことがあると述べた。そしてその結論として、桃峰とは桃園のことであり、『三上桃峰』の狙いは「劉少奇のために判決を 覆す」ことにあり、「劉少奇、王光美のために功を歌い徳を讃える」ものであると言いなした。

 この批判を発端として、二ヶ月にも満たない間に、批判文章は疫病の如く全国に蔓延し、一時期「逆流派」、「復辟派」、「くつがえし派」を打倒せよという 気の狂ったような大波が巻き起こり、いくつもの冤罪が作り出され、この事件とは全く関係のない連環画『大紅馬』も「馬」の変色を語っていたため、命令によ り印刷を停止させられた。湖北省の児童劇『桃山新苗』は「桃」の字を使っていたため、会議を開き新たに検討するよう迫られた。

 さらに「四人組」一味は『三上桃峰』と、山西省で文芸評論をしていた趙雲竜の文章を結びつけた。趙の文章は江青の社会主義文芸に関する根本任務論が、文芸の手段と目的を混同しており「妥当性に欠ける」と批判していた。江青一味の文化部における代理人である于会泳はこの文章が「『三上桃峰』の理論的基礎であり、右からの巻き返しの奇怪な論である」と述べた。「四人組」は思いのままに暴威を振るい暗雲が立ちこめ、多くの人間が隔離審査に送られ批判、闘争を受けた。趙雲竜もこの迫害により命を落とした。

 1978年9月11日、中共山西省委員会は、『三上桃峰』事件に対して中共中央が判決の改めを決定した文書に基づき、この事件により冤罪を被った指導幹部、文芸団体、文芸工作者の名誉回復を正式に宣言した。

金春明等編『文革時期怪事・怪語』より引用

用語集のトップへ戻る



 「時代精神融合」論:「時代精神融合」論
 著名な学者、教授の周谷城が提起した一種の美学観点。
 62年、周谷城は『新建設』第十二期に「芸術創作の歴史的地位」を発表し、「時代精神融合論」を提起した。
 「模倣を越えたもの、これは一方からいえば創作に属しているが、しかしまた一方では、社会全体に広く流行する時代精神でもある」。
 「原始氏族社会では、人と自然との闘争、部落と部落との闘争によって、さまざまな、異なった思想意識が形成され、これらが氏族社会の時代精神に融合され る。奴隷制社会では生産力が以前と比べて大々的に飛躍し、社会は、搾取階級、被搾取階級という二つの階級、また抑圧階級、被抑圧階級という二つの階級に分 裂する。階級の出現にともない、後に国家制度が生まれる。この時代の人々には、自然との闘争以外にも、さらに階級と階級との闘争、民族と民族との闘争があ る。こうしたことすべてから、前の時代よりさらに複雑な思想意識が形成され、さらに複雑な、奴隷社会の時代精神に融合される。
 「奴隷制社会から封建社会に進み、封建社会から資本主義社会に進むと、生産関係の変化にともない、各種の闘争も時代と共に変化していく。封建時代では封 建的地主の抑圧と搾取に対する農民反乱が絶え間なく勃発する。資本主義時代では、ブルジョア階級の抑圧と搾取に対するプロレタリア階級の反乱が絶え間なく 勃発する。こうしたことから、封建時代でも各種の思想意識が生まれ、その時代の時代精神に融合される。また、資本主義時代でも各種の思想意識が生まれ、そ の時代の時代精神に融合される。
 「各時代の時代精神は、統一的な全体的性格を持つが、しかしその全体性とは、それぞれの階級ないしそれぞれの個人によって反映されたもので、それぞれは 個別的である。この個別性が、さまざまな芸術作品に持ち込まれると、創作の特徴、もしくは独創性、もしくは天才の表現となる。つまり、広く社会全体に流行 する精神を時代精神といい、具体的作品に反映される表現を天才の表現というのである。」
 周谷城の観点の核心は、具体的な作品、階級意識と、社会のイデオロギー全体との関係を明らかにすることにあった。つまり、各階級のさまざまな思想意識の 総和が、その時代の社会イデオロギーを構成すること、そしてこの社会イデオロギーの具体的表現は、ただ各階級の各個人による具体的作品を通じてのみ反映さ れうること、を主張したのである。
 彼の観点は、当時、芸術理論、美学、哲学研究者の広範な注目を呼び、討論が展開された。こうした学術の範疇における問題は、論争を通して、是非を明らか にし、どの点に賛成し、どの点に反対するかをはっきりさせるべきであり、相手がマルクス主義とどのくらい離れているかという単純な基準でその優劣を断定す べきではない。
 ところが、理論界の「棍棒」として名を馳せていた姚文元は、63年9月24日『光明日報』に「時代精神を略論する」を発表し、周谷城の観点に「史的観念 論」のレッテルを貼り付け、周谷城が「時代精神を超階級的な各種意識の『融合』だと抽象化したことは、科学的分析に背き、事実にも背いている。この観点は 階級分析を堅持する歴史唯物論ではなく、階級の分析から遊離した史的観念論である。」と誹謗した。
 周谷城の「融合」とは本来的には、各部分の総和、または、全体を「組成するもの」あるいは「構成するもの」を意味していたが、姚文元はこれを「融合」だ と曲解した。こうして、周谷城の観点を、「各敵対階級の思想意識を一つの単一的な時代精神に融合すべきだと主張するものである」、とする謬論が引き出さる ことになった。
 この後、周、姚両人は、互いに論駁しあった。例えば姚文元は、「時代精神とは 複雑な全体性のことではなく、まじりけのない革命精神のことである」、と 主張すれば、周谷城は「時代精神とは一つの「類」の概念で、範囲は大きい。革命精神とはその一部分で、「種」の概念であり、範囲は小さい。革命精神を時代 精神だとするのはよいが、時代精神が革命精神であると考えことは、まるっきり不可能である。」とこれを論駁した。
 しかし、「階級分析」をあくまでも強調する当時の政治気候、および「文化大革命」前夜の政治情勢の変化と伴って、多くの新聞、雑誌が、姚文元の謬論の影 響を受け、周谷城の「時代精神融合論」に対して公平でない批判を行った。学術上で争論された問題が、政治上の大批判へと変化していったのである。66年2 月、江青が林彪と結託してでっちあげた『部隊文芸工作座談会紀要』は、「時代精神融合論」を「毛沢東思想と対立する反党反社会主義文芸の黒い路線」の代表 的な論点の一つとして攻撃した。また、周谷城も「反動学術権威」として攻撃され迫害を被った。
 この批判によって、革命を装った、極左的美学観点は、支配的地位を占領するための基礎を築いた。すなわち革命的階級の精神だけが時代精神であり、正面人 物だけが、時代精神を直接的に体現しうると認識したのである。さらに江青は、『威虎山奪取』の人物創造を語った際に、「どっちに座っているかを考慮しなく てはならない。正面人物の側か、それとも反面人物の側か」と述べた。こうした、文芸舞台の人物の位置と現実生活における階級の地位との機械的な同一視は、 その直接の結果として、後に「四人組」のファシズム文化専制主義が鋳造した凶悪な棍棒---つまり、「三突出」の創作原則という「大棍棒」のための、理論 的根拠を提供した。
 ここで一言触れておくべきことは、姚文元のやからが、でたらめと武断を、理を説くことに代えた悪辣な手段も、周谷城に自己の学術見解を放棄させることは できなかったということである。「文化大革命」中、「時代精神融合論」をどう解釈するかと問われ、周谷城は明確に次のように答えている。「社会現象とは複 雑なもので、革命的なものもあれば、反革命的なものもあり、これは客観的な存在なのです。決して単一なものではありません」。「ニクソン、田中はそれぞれ アメリカと日本から中国を訪問しましたが、彼らが中国にやって来た目的は資本主義をやるためで、私たちのほうでは、彼らが来たのは社会主義をやるためなの です。時代精神が、ただ革命精神のみだとどうして言えるでしょうか。」

金春明等編『文革時期怪事・怪語』より引用

用語集のトップへ戻る


T



陶鋳(Tao Zhu):とうちゅう

 中共中央宣伝部長。文革初期に劉少奇、ケ小平と共に激しく批判された。
 65年国務院副総理。66年5月、ケ小平の推薦により、文革開始と共に失脚した陸定一に替わって、中共中央宣伝部長に就任。8月、八期十一中全会で政治 局常務委員に選出される。8月中央文化革命小組顧問となるが、劉少奇、ケ小平ら幹部への批判に慎重な態度をとったため、江青ら他のメンバーと衝突、67年 1月江青と陳伯達は陶鋳を「中国最大の保皇派」と非難、陶鋳打倒を扇動する。毛沢東も彼を批判したため中南海に監禁され厳しい批判党争にさらされる。9月 姚文元の論文「陶鋳の二冊の本を評す」が「人民日報」に掲載され攻撃が激化。癌のため強制退去。移転先で死亡。78年12月名誉回復。
 『岩波現代中国事典』、望月暢子

用語集のトップへ戻る



唐暁文(Tang Xiaowen):とうぎょうぶん

 文化大革命初期に成立した、中央党学校執筆グループのペンネームの一つで「党校文」をもじったもの。このグループは康生が支配し、74年6月康生の病状 悪化後は江青が掌握して四人組のために世論工作を行わせた。唐暁文の名は73年9月27日の「人民日報」に掲載された「孔子は「全民教育家」であろう か?」で初めて使われ、批林批孔運動においてこの名で大量の文章が発表された。
 76年四人組失脚後、解散させられ、メンバーは審査を受けた。
 『岩波現代中国事典』、望月暢子

用語集のトップへ戻る



田漢(Tian Han):でんかん

 劇作家、近代的演劇運動の創始者。また映画人、詩人。国家の作詞者。
 21年郭沫若らと創造社を興し、「珈琲店之一夜」で名を出す。また映画「風雲児女」などのシナリオを書き、その主題歌「義勇軍行進曲」は建国後国家に指定された。
 建国後は国務院文化部戯曲改進局長、中国戯劇家協会主席などに任じるかたわら、「関漢卿」、「謝瑤環」などの歴史劇を執筆。文革では後者が「大毒草」と して批判されると共に、三十年代に魯迅に反対した「四人の男」の一人として集中砲火を浴び、66年に逮捕、68年に獄死、79年に名誉回復。
 『岩波現代中国事典』、吉田富夫

用語集のトップへ戻る


W


「文芸黒線専政」論
  江青がでっちあげた、建国後の文芸活動を全面的に否定するという謬見。
  66年2月2日から20日まで、江青は部隊文芸工作座談会を上海で開催した。この会議の『紀要』が「文芸の黒い路線独裁」論を最も早く提起したもので ある。建国以来、文芸界は毛主席の文芸路線を「基本的には、実行せず、毛主席の思想と相対立する反党反社会主義の黒い路線が我々を独裁しており、この黒い 路線とはつまりブルジョア階級、現代修正主義文芸思想と所謂三十年代文芸との結合である」と『紀要』は述べている。また、「我々は党中央の支持に従って、 文化戦線上の社会主義大革命を引き続き押しすすめ、この黒い路線を徹底して打ち倒さなければならない。この黒い路線を打ち倒した後、さらに次の黒い路線が 現れれば、やはりもう一度、これと闘争しなければならず、そのため、困難で、複雑で、長期に渡るこの闘争には、数十年の、場合によれば数百年の努力を注が ねばならない。この闘争は我が国の革命の前途を左右する大事であり、また世界の革命の前途を左右する大事でもある」。
  この誤った論点は、「文化大革命」中、無数の新旧文芸工作者に無実の罪を着せることになっただけでなく、工業交通、金融・貿易、外交、農業など各戦線 も巻き添えを食い損害を被った。各戦線の「黒い路線」を次から次へと批判した結果、我が国の十七年におよぶ社会主義革命と社会主義建設の輝かしい成果は全 面的に否定されることになった。

金春明等編『文革時期怪事・怪語』より引用

用語集のトップへ戻る



「文芸の黒い路線逆流」反対
 「批林批孔」運動を利用し、周恩来総理に反対し党権簒奪を目論んだ「四人組」の犯罪的活動の構成要素。
 74年2月28日、『人民日報』は江青らの許可を得た文章を発表した。「初瀾」の署名で書かれた『晋劇「三上桃峰」を評す』は反「文芸界の黒い路線逆 流」を引き起こしたまがまがしい信号弾であった。続いて初瀾がさらに文章を発表し、湘劇『園丁之歌』を率先して攻撃し、教師を園丁に見立てるのは「修正主 義教育路線の復活だ」と述べた。江青は、「園丁には党だけがなれるのであり、教師はなれない。『園丁之歌』は「園丁」とは教師のことであると鼓吹している が、これは教育事業における党の指導への否定であり、我々の「学校」を再びブルジョア階級に支配させるということだ」などとでたらめなことを言った。彼女 は「教養がない者がどうして革命の重責を担うことができるだろうか」という言葉を「まったくの報復である」と中傷した。この事件から始まった「文芸界の黒 い路線逆流」反対の風潮は演劇界から映画界へと拡大し、ますます激しくなっていった。
 75年春節の前、海島女民兵を主題とした映画『海霞』が撮影を終えた。この映画に対して、周恩来は肯定と称賛を表したが、「四人組」は「誰が周総理に 『海霞』を勧めたのか」を調査させた。江青は文化部の名義で北京撮影所に宛てて三通の公開書簡を書くよう文化部の腹心に指示し、『海霞』は黒い路線逆流の 代表作であると中傷し、撮影所全体で批判運動を展開するよう号令を出した。このごたごたは、結局中共中央政治局が『海霞』の上映に同意するまで続くことに なった。しかしそれでも江青は攻撃の手をゆるめなかった。彼女は「『海霞』の背後には黒幕がいる」と悪辣にわめき立てた。
 75年4月8日、大慶油田での石油労働者の奮闘精神を描いた映画『創業』に対して、江青は自ら批判活動を画策、指揮し、所謂「十大罪状」をでっちあげ、 「誰のために記念碑を建て伝記を書いたのか」を調査すべきであると述べた。7月25日、毛沢東は『創業』の脚本家張天民が送った手紙に指示を与え、「この 映画には大きな誤りはなく、上映を許可するよう提案する。全面的な非難は必要ないし、罪名が十もあるのはやりすぎだ。党の文芸政策の調整のためにならな い。」とした。このため姚文元も準備していた『創業』批判の文章を発行中止にせざるを得なかった。
 この「文芸界の黒い路線逆流」反対によって、ようやく復活してきた全国の文芸界に再び暗雲が立ちこめ、緊迫した状況を作り出すことになった。これは、周 恩来、ケ小平による文芸調整及び各分野での整頓政策に対する「四人組」の反対活動であり、党権簒奪をさらに進める上での重要なステップであった。

金春明等編『文革時期怪事・怪語』より引用

用語集のトップへ戻る


 
王力(おうりき)
 文革期に台頭した理論家。
 66年「五・一六通知」の起草に参加、中央文革小組のメンバーとなる。多くの論文を書いて実権派を攻撃。67年7月武漢事件で負傷。8月末軍内および外 交部内の奪権を呼びかけ、関鋒、戚本禹と共に失脚、隔離・監禁される。四人組失脚後、釈放。84年党籍剥奪。

用語集のトップへ戻る


 
王任重(おうじんじゅう)
 人民公社化の推進など建国後の農業政策にかかわりの深い指導者。
 58年党中央委員に選出され、湖北省農村の人民公社化を推進。66年文革開始後、中央文化革命小組副組長になるが、同年末陶鋳派と批判され失脚。

用語集のトップへ戻る



呉徳
(Wu De):ごとく、1913−95

 華国鋒政権を支えた党・政府の要人、北京市長。
 66年5月北京市党委の改組に伴い、同委員会第二書記に就任、67年北京市革命委副主任。69年党中央委員。72年北京市党委第一書記、北京市革命委主任、北京市長、北京軍区政治委員。73年党中央政治局委員。76年天安門事件で民衆を弾圧。
 四人組失脚後、華国鋒を支持、77年党中央政治局委員。ケ小平の実権掌握に伴い、78年北京市長、北京市党委第一書記を解任、80年党と国家の指導的職務をすべて解任。
 『岩波現代中国事典』、望月暢子

用語集のトップへ戻る


用語集のトップへ戻る


X


 
「現実主義広濶道路」論 :「リアリズム大道」論
 主に、作家秦兆陽に向けられた批判。

 「百花斉放・百家争鳴」方針の鼓舞の下、1956年、作家秦兆陽は雑誌『人民文学』九月号に、何直のペンネームで、『リアリズム---広い道』と題する 文章を発表し、次のように指摘した。「政治に対する高度な情熱を持つ作家は、ゴーリキーや魯迅を手本として、現在の生活に自覚的に関与し、現実生活を速や かに描き出す技術を身につけるべきであり、自己の一生を戦闘的生活としなければならない」。しかし同時に彼は、次のようにも指摘している。「文学、芸術 の、政治への奉仕、人民への奉仕は、長期的な、総体的な要求であるべきで、短絡的にただ目の前の政治宣伝の任務だけに気を取られてはならず、また文芸をあ る種の政治概念を絵解きする道具と単純に見なしてはならない。さまざまな文学形式の特徴とそれぞれの作家の具体的条件について考慮し、さまざまな文学形式 の特徴とそれぞれの作家に、画一的に同じものを要求すること、ならびに行政的手段に訴えて文学創作に干渉することを避けなければならない。」

 こうした観点は、そう大きな誤りがないことが明らかであるばかりでなく、さらに、啓発的な主張に富んでいる。ところが、57年の反右派闘争では、「文芸 がプロレタリア階級の政治に奉仕することに反対した」原則性に関わる問題だと大げさに厳しく批判された。さらに、56年のソビエト共産党第二十回党大会以 後、ソ連の文芸界の一部にも、秦兆陽と似通った主張が出てきたので、秦兆陽は、国際修正主義のメガホンだと中傷された。文芸界では、57年、58年にこの 種の観点を批判する文章が多数発表された。60年第三回全国文芸界代表大会でも、この観点に批判が行われた。66年、江青が『部隊文芸工作座談会紀要』を でっちあげた際、昔のことを再びむしかえし、この観点は、「文芸の黒い路線独裁」の「黒い八つの論」として挙げられたのである。

金春明等編『文革時期怪事・怪語』より引用

用語集のトップへ戻る


 
「現実主義深化」論 :「リアリズム深化」論
   主に、作家邵○麟に向けられた批判。
   「文化大革命」中に批判された「リアリズム深化」論とは、江青一味が、本来の意味をほしいままに歪曲し、 無理やり人に着せた罪名である。 
   1962年、大連で、農村題材短編小説創作座談会が開催された。座談会において、一部の作家、芸術家  が、当時、文芸創作に存在していたいくつか の問題を指摘した。例えば、「革命性は強いが、現実性が欠けており、リアリズムの土台が強固でない。」「敵味方の矛盾を描くことには注意を払うが、人民内 部の大量の問題については、これをおろそかにしている。」「人物形象の創造において、英雄人物は重視されるが、中間人物、反面人物はおろそかにされる。」 「単純化された大言壮語が多く、深みのある細やかな心理描写が少ない」などである。
 
 当時作家協会党組書記だった邵○麟は、文芸創作においては革命性と現実性がもっとうまく結びつけられるべきであることを語った際、リアリズム深化の問題 にふれ、次のように述べた。「農業が国民経済の基礎だとするならば、リアリズムこそ我々の創作の基礎である。リアリズムがなければ、ロマンティシズムもな い。我々の創作は、リアリズムに向かってさらに一歩突進すべきであり、こつこつと現実を描き出さなければならない。茅盾同志が述べたリアリズムの広さ、深 さ、高さというこの三者は、緊密に相関しているものである。ロマン・ロランは、『ゴーリキーは黒土の中から成長してきたが、私自身は、外側から中に入り込 んだのである』と語っている。柳青、趙樹理、李准、劉○徳は、みな農村での生活の基礎が、豊富である。生活を熟知すること以外にも、さらに現実の生活に突 進し、それを認識し、分析し、理解しなければならない。このことは、すべての作家が追求することである。リアリズムの深化とは、この基礎の上に、強力な革 命的ロマンチシズムを生み出し、ここから両結合の道を探求するということである」。
 
 この主張の中心的意味と重点は、文芸創作には堅実な、生活の基礎が必要であることを強調することにあったことは、大変明らかである。つまり、作家は生活に深く入って行かねばならないということを強調しており、こうした要求は正しいものと言うべきである。
 ところが、会議終了後すぐ、こうした正しい主張は、一部の者によって、「社会の暗黒面」を探し出すよう作家に号令し、文芸創作は農民の「暗い心理」を描 くべきだと鼓吹するものだと、歪曲された。さらには、党の基本路線を否定し、政治方向を取り違えた現代修正主義の文芸へと道を切り開くものだと言われた。

 1964年、中国作家協会は一連の党組会を開き、邵○麟に対する「暴露、批判」を行った。さらに『文芸報』編集部の名義で文章を発表し、彼の主張を粗暴 に否定し、江青がでっちあげた『部隊文芸工作座談会紀要』はこうした観点を「黒い八つの論」として列挙した。
 こうしたことから、リアリズムの一切の創作方法、また積極的な意義、歴史的貢献を持つリアリズムの伝統はすべて否定され、一時期、「偽物、大風呂敷、空っぽ」文芸がはびこることになった。

 文芸路線の是正に伴い、ロマンチシズムと互いに結合する創作基礎としてのリアリズムと、リアリズムの深化は、ますますその必要性と正しさを明らかにさせていった。

金春明等編『文革時期怪事・怪語』より引用

用語集のトップへ戻る


 
謝富治(しゃふじ)
 軍出身。文革で台頭した指導者、公安部長、副総理。65年国務院副総理。
 文革初期、紅衛兵による四旧打破を扇動、67年1月、のちに多くの冤罪・誤審事件を生む「公安六条」を制定。67年4月北京市革命委主任。7月武漢事件 で監禁され、北京に脱出、8月公安・検察・司法の各機関への襲撃・破壊と幹部批判を扇動。69年党中央政治局委員。
 72年病死。81年林彪・四人組裁判で主犯の一人として確定される。

用語集のトップへ戻る


 
謝静宜(しゃせいぎ)
 北京における文革推進者、北京市革命委副主任。女性。
 53年、中学卒業後、党中央弁公庁の機密要員。68年毛沢東思想宣伝隊と共に精華大学に進駐、同大学革命委副主任となる。以後、江青と親密な関係を結ぶ。73年党中央委員、北京市革命委副主任。遅群と共に梁効執筆グループを組織し、周恩来、ケ小平らを攻撃。
 76年四人組と共に失脚、職務解任、党から除名。77年逮捕されたが起訴免除。

用語集のトップへ戻る



「写真実」論
:「真実を描け」論
 「真実を描け」を最も早く強調して提起したのは胡風であった。1955年に文芸界において「胡風反革命集団」が大々的に批判された際、この観点は胡風集 団の文芸上における代表的な論点だとされた。胡風が主張した「真実を描け」とは実際上、「社会主義の暗黒を暴露する」ことであり、文芸がプロレタリア階級 への政治的奉仕であるということを否定し、文芸を利用し反党活動を行う上での表看板であると批判された。こうした政治性を帯びた歴史的原因により、以後こ のスローガンは「暗黒面を暴露せよ」の同義語となり、創作における一大タブーとされた。こうして文芸界では、いわゆる社会主義の光明、先進、優越性を大げ さに褒め称えるだけで、その欠点、誤り、限界性については敢えてふれようとしないという、ゆゆしき風潮が生み出された。しかし作品がいったんリアリティー を失うと、作家、芸術家は作品の受け手の信任を失うことになり、作品の影響力も低下することになった。こうしたことから六十年代初めになると、文芸界で は、広州会議、大連会議において、多くの作家が当時の作品に存在していたリアリティーの欠如、リアリズムの不徹底といったことに関して批判と建議を行っ た。こうした正確な意見は後の毛沢東の文芸指示に基づく整風運動において、「真実を描け」論の焼き直しだと断じられ、さらに江青が組織しでっちあげた『部 隊文芸工作座談会紀要』の中では、「真実を描け」論が「文芸の黒い路線独裁」の「黒い八つの論」の一つだと中傷された。
 「真実を描け」論およびその「焼き直し」とは一体どういうことだろうか。我々は胡風の言論、またその他のたくさんの作家、芸術家の講演を挙げるまでもな く、ただ姚文元の『陶鋳の二冊の本を評す』に書かれた結論から容易にそれらを知ることができる。陶鋳は54年1月、広州文芸界学習会議の講演で、文芸創作 の作用を強調し次のように述べている。「社会主義思想と資本主義、封建主義との思想闘争において、文芸という武器は重要な作用を果たします。一編の社説、 一つの報告は自然と作用を起こすものですが、一方、例えば小説、映画、劇、絵画、詩、歌といったものも現実の姿をリアルに描き出し、大衆の共鳴を引き起こ すことができ、それによって人々の思想を引き上げるのです。私が思うに、この作用は時には社説、報告よりも大きなものです。」姚文元の文章は、陶鋳のこの 段落の一句「現実の姿をリアルに描き出し、……この作用は時には社説、報告よりも大きなものです」を引用しこう述べている「これは胡風の『真実を描け』論 のそのままの焼き直しである」。つまり「四人組」が「真実を描け」論に反対したということは、文芸が現実をリアルに描き出すことに反対したということにほ かならない。
 リアリティーが芸術の生命である。現実をリアルに描きだすことが文芸の重要な性質であり、そのために文芸は力を持つのである。作品のリアリティーが芸術 のリアリズムを構成するうえでの、欠くことのできない条件なのである。仮に文芸が現実に対する最低限のリアリティーを失うとしたら、それは虚偽へと転換 し、必然的に唾棄されるものとなる。そのため、「真実を描け」のスローガンを堅持するとは、要するに生活の息吹を全体的に把握し、生活におけるリアリ ティーと矛盾の闘争を明らかにすることなのである。厳粛な、生活に忠実な作家は、党と人民の事業を情熱的に、本質的に、如実に讃美する一方で、また生活の 落ちぶれた、腐りきった事物を暴き、鞭打ち、人々を覚醒させ、奮闘させ、心を一つにしてそうしたものと闘争するよう促すのである。このため、「真実を描 け」論に対する批判は完全に誤った批判だといえる。

金春明等編『文革時期怪事・怪語』より引用

用語集のトップへ戻る


 

徐景賢(Xu Jingxian):じょけいけん、1933−
 文革で台頭した人物。上海市革命委副主任。江蘇省奉賢(現、上海)出身。もと上海市党委写作組支部書記。
 文革初期、張春橋、姚文元の指示を受け、王洪文らと共に上海市の党および行政の指導権を奪取。67年2月上海市革命委員会成立と共に副主任に就任、同委の実質的な活動を主宰。71年1月上海市党委書記。9−10期党中央委員。
 76年上海でクーデターを画策、隔離審査される。82年上海市高級人民法院で懲役18年、政治権利剥奪4年の判決を受ける。
『岩波現代中国事典』、望月暢子

用語集のトップへ戻る


Y


 
于会泳
(Yu Huiyong):うかいえい、1926−77

 文革中の文化部長。江青の文学界における三人の腹心の一人。
 65年革命模範劇「智取威虎山」の創作に作曲家として参加、江青と知り合う。文革開始後、中央文化革命小組メンバー、69年第9回党大会主席団員。71 年国務院文化組メンバー、のちに副部長。73年党中央委員。75年国務院文化部長。映画「海霞」「創業」など多くの作品と文化界人士を迫害。
 76年四人組と共に失脚、隔離審査される。服毒自殺。
 『岩波現代中国事典』、望月暢子

用語集のトップへ戻る


 
一打三反

 70年に全国で展開された「反革命破壊活動を打ち倒し、汚職窃盗、投機   、    浪費に反対する」活動を指す。
 70年1月31日、中共中央は「反革命破壊活動を打ち倒すことについての指示」を発し、2月5日さらに、「汚職窃盗、投機   に反対することについて の指示」および「浪費に反対することについての通知」を発した。中共中央は当時の国際、国内情勢を、「ソ連修正主義は米国帝国主義との結託をまさに強めて おり、我が国に、侵略戦争をしかけようとたくらんでいる。国内の反革命分子もこれに乗じて蠢動し、外国と呼応している。このことは、現在の階級闘争におい て、注目すべき新動向である。」と認識し、そのため、全党に対し、次のように求めた。「思い切って大衆を立ち上がらせ、人民戦争を  し、大告発、大摘 発、大批判、大静粛、の高潮を巻き起こそう」。 この指示と通知に基づいて、「一打三反」運動が全国で展開された。 この運動は「文化大革命」において 「闘争、批判、改革」を徹底させるうえでの、重要な措置であった。「一打三反」運動は、確かに一部の反革命分子および各種の犯罪分子を打ち倒したものの、 当時の「左」傾思想の指導、さらに、「公安六条」の執行、また多くの地区で一部の者が権力を握った状況下では、少なからざる冤罪をも引き起こした。70年 8月20日、優秀な共産党員張志新は、林彪、「四人組」に反対した理由で、「現行反革命」の罪名をきせられ、無期徒刑の判決がくだり、後に殺害された。こ の事件は、当時の冤罪の典型的な例である。

金春明等編『文革時期怪事・怪語』より引用

用語集のトップへ戻る


 
陽翰笙
(ようかんしょう)
 映画脚本家、共産党の文芸官僚。28年に創造社に参加。30年中国左翼作家連盟党団書記。32年映画演劇に転じ、映画脚本「李秀成之死」、「三毛流浪 記」、話劇「天国春秋」などを書く。国防文学論争では、魯迅から周揚らと共に「四人の男」を呼ばれ、嫌われた。
 建国後、中国電影工作者協会主席、中国作家協会理事などを務めた。話劇「三人行」などがある。映画脚本「北国江南」は文革中、修正主義作品と攻撃された。  『岩波現代中国事典』 萩野脩二

用語集のトップへ戻る


Z


 
張恨水:ちょうへんすい。1895.5.18−1967.2.13
 
 民国時代に最も流行した通俗文学作家。北京などで記者をしながら新聞連載小説を書き始め、「春明外史」(25−29)を出版、「金粉世家」「啼笑姻縁」 などが好評を博し、抗日戦争期には北京、重慶と移りながら、市民の哀感を描いた「熱血之花」「風雪之夜」、解放戦争期には国民党の腐敗政治を描いた「八十 一夢」「魍魎世界」など生涯に120余編の長編小説を書いた。建国後は歴史故事数編を発表した。

『岩波現代中国事典』

 

 
張志新:ちょうししん

 文革中に文革批判を公然と行った遼寧省の党幹部、革命烈士、女性
 55年共産党入党、57年遼寧省党委宣伝部に配属される。文革初期、毛沢東の絶対化や革命幹部への批判などに反対し、林彪、江青らを公然と批判して迫害 される。68年遼寧省盤錦幹部学校へ下放。69年現行反革命罪で逮捕。獄中でも「ある共産党員の宣言」「誰の罪か」などの文章を執筆して批判を続けたため 虐待を受ける。当初懲役15年の判決を下されたが、遼寧省幹部による再審理の結果、無期懲役に変更。翌日、批判の声を上げぬよう気管支を切断された上、銃 殺。
 79年名誉回復、革命烈士に追認された。
 『岩波現代中国事典』、望月暢子

用語集のトップへ戻る


 
張鉄生
:ちょうてつせい


  文革中、「白紙答案事件」で一躍有名になった受験生。
  73年に労農兵学生として大学を受験、物理化学の試験を白紙で提出、その答案の裏に入試批判を書いた。そこでは試験ができなかた「いいわけ」として、 公社での本業である農業生産に力を注ぐ余り、学業がおろそかになったことを述べつつ、試験内容が知識に偏重し、試験そのものが労働者大衆に門戸を閉ざして いると批判した。このことを知った毛遠新がこの手紙に手を加え、「遼寧日報」に発表した。それが「人民日報」に掲載されるや、張鉄生は「反潮流の英雄」と して一躍有名になり、大学生となったばかりか、入党して職位を得て、全国人民代表大会常務委員になったのである。また、彼は、教育革命の英雄として日本で も話題を呼んだ。
  その後教育革命が沈静化する中、再度文革末期の76年に文革派の反撃の材料として取り上げられたが、四人組打倒後の77年初めには、はやくも白紙答案 の欺瞞性を批判する主張が現れた。しかしながら、彼の行動と問題提起が当時の教育、とりわけ受験制度に問題を抱えていた国々において、若者達に衝撃をあた えたことも間違いない。
 『岩波現代中国事典』、中島勝住

用語集のトップへ戻る


 
政変経
:クーデター経

 林彪の「五・一八」講話の別名。
 66年5月18日、林彪は中央政治局拡大会議での講話において、その大部分を中国古代の周朝の建立から辛亥革命後の蒋介石まで、またアジア、アフリカ、 南米からヨーロッパの国々まで、といった古今東西のさまざまなクーデターの羅列に費やし、クーデター件数の統計を出し、その経過、手段、結果を詳しく述べ た。 林彪がこのような話をした目的は、過去のクーデターを現実と結びつけることにより、実際に恐ろしい空気を生み出すことにあった。林彪は会議中、彭 真、羅瑞卿、陸定一、楊尚昆を「共同して転覆を大乱を引き起こした」と陥れ、「最近怪しげな事件、動きがあり、注意すべきだ。反革命クーデターが起こり、 人が殺され、政権が奪われる可能性がある」とまことしやかに述べた。さらに「馬鹿野郎たちが、冒険しようとして動く機会を狙っている。彼らが我々を殺そう というなら、我々は彼らを鎮圧せねばならない!」と大いに罵った。
 林彪のこの演説に対して毛沢東は完全には賛同しなかった。同年7月8日、江青に宛てた手紙には次のように指摘してある。「彼はもっぱらクーデター問題を 話したが、クーデター問題をあのように話したのは過去に例がない。彼のいくつかの言葉には、私はいつも不安を感じる」。しかし、毛沢東のこの態度は数人に しか知らされず、公には出されなかった。
 林彪の「クーデター経」は、「文化大革命」中、林彪一味が「クーデター」「軍事反乱」の罪名で、プロレタリア階級革命家の重鎮を迫害する際の世論準備の 役割を果たしたと同時に、林彪、「四人組」が反革命クーデターを発動する目的から、過去のクーデターを「取経」した総括でもあった。

金春明等編『文革時期怪事・怪語』より引用

用語集のトップへ戻る


 
「中間人物」論

 62年、作家協会党グループ書記邵せん麟は、大連で開かれた農村題材短編小説創作座談会で、当時の多くの作品が、「ただ、人物の英雄主義を描くだけで、 敢えて思わず、敢えてなさず、闘争の複雑性は充分に描かれていない」と指摘した。彼の考えは、「先進人物を強調して描くべきではあるが、だからといって、 中間人物を描かなくても良いというわけではない、題材を多様化するだけでなく、人物も多様化させねばならない、正面人物、反面人物を描くだけではなく、中 間人物も描かねばならない」というものだった。
 これらの意見は、正しいものであり、党の「百花斉放・百家争鳴」方針、当時の文芸創作の実際の状況にも適ったもので、社会主義文芸創作を繁栄させるうえ で、有利なものだった。しかし、これらの意見は、ただ「中間人物」論として単純に概括され、ブルジョア階級および修正主義文芸思想として批判を受けた。 『解放日報』が64年12月に「中間人物」論に対する、姚文元の批判論文を掲載したのに続いて、さらに、65年2月21日には『人民日報』が「「中間人 物」と典型問題」と題する文章を発表し、「(邵せん麟が)「中間人物」を描くことを吹聴し、「中間人物」でもって、英雄的な工農兵形象の地位を締め出し、 落後、動揺、を描き、人民の欠点を宣伝、あるいは暴露することに集中するよう作家に提唱し、人民を後退させ、英雄人物を描くことの重要性を貶め、「中間人 物」を描くことを文芸創作の最も重要で中心的な任務にしようとした」と論断した。また、『文芸報』も「中間人物」論批判をテーマとする文章を掲載した。
 「文化大革命」期には、「中間人物」論に対する批判は、より激しさを増し、「修正主義文芸理論」の典型とされただけでなく、「中間人物」論への反対を口 実に、中間状態にある一切の人物、落後人物の転化、先進人物の弱点およびその成長過程、社会における各種の人物の思想改造を描くことは、禁止された。「四 人組」は、歌劇『白毛女』、映画『創業』、『海霞』の主要人物をも「中間人物」であるとして排斥を加えた。
 「中間人物」論に対する批判は、「四人組」が文芸創作を扼殺するうえでの、太い棍棒となり、その結果、題材の狭小化、人物の単純化をもたらし、我が国の文芸園地は重大な被害を被ることになった。

金春明等編『文革時期怪事・怪語』より引用


朱永嘉(Zhu Jiaren):しゅえいか

 1931年生まれ。もと復旦大学歴史系教師。のちに、中共上海市委執筆班歴史組責任者。文革中は上海市革命委員会常務委員・同執筆組責任者、復旦大学党委書記。江青グループの上海における重要な中心人物。
 1966年12月、朱は張春橋・姚文元の直接の指導のもと、上海市党委機関内部からの奪権を進める。この後、多くの党員、知識分子に迫害を加える。 1976年2月から翌月まで、朱は張春橋・姚文元の使図を受け、自ら執筆班を支配下に置き、ケ小平ら業務に復活した幹部を批判した文章を大量に発表する。
 10月、江青らが拘束されたあとも、上海で反乱のための世論工作を準備し、『文匯報』および放送局を管制下に置いた。さらに「全市人民に告げる書」を発表し、「江青・張春橋・姚文元・王洪文を奪還せよ」とのスローガンを掲げた。
 江青グループ失脚後、朱は上海公安局によって逮捕される。1982年8月、上海市中級人民法院は朱永嘉に懲役14年、政治的権利剥奪3年の判決を下した。

用語集のトップへ戻る